コロナと習慣

 ―ひとの習慣は変わらない―
 習慣の固着は、推理小説等を読む上では古典的な面白みがあるのだけれど、この度のコロナ世界が知らしめてくれたのは、ひとの習慣は渋々変わる、という心許ないリアルだった。
 世界中のひとが、またたく間に眼鏡よりもマスクをかけ、フィジカルには一斉によそよそしくふるまいながら、メンタルの方はやけに図々しかったりと、その変容をまざまざ体感している。
 日常習慣の、具体的に何を変えているのかは、人によりけりであろうが、個人的には真先に『トイレのルール』を変更した。
 先ず一階のトイレと二階のトイレの使用を分け、小窓に並ぶシーサーの置き物や風景の写真などの装飾を全てなくした。クリーナーは除菌と謳ってある泡のものに変え、トイレットペーパーは消臭のダブルに変更した。以前なら、積ん読で済みそうな雑誌等も置いていたが、そういうのもぜんぶ止めた。
 シンプル一辺倒の白い空間となったトイレ君だけど、こんなに明るい場所を8才の娘は「こわい」と言う。ここに花子が常駐しているとかではなく、彼女がこわいのは、音なんである。自動洗浄の音。
「ぜいたくよ!」
「なんで?だってこわいもん」
「ママがアナタくらいの頃は、もっとこわいお便所だったんだから」
「おべんじょって何?」
「汲み取り式便所って言ってね、タイルなんかや床板に直についていて、便器をのぞくとそりゃもう真っ暗い穴がぼかーんと空いてて、夜更けなんかは足がすくんじゃうんだから」
 ホラ、これよ。と言って画像を見せてやると、娘は、どういう格好で用を足すのか、とか、流すところがない、とか、案外現実面を問うてきた。ポーズをとりながら説明し、
「トイレットペーパーだって今のとちがう」
と再び画像を見せる。長方形の薄雲鼠を指さしながら、
「落とし紙っていうの。ガサガサしていて、ママはあんまり好きじゃなかったから、こっそりお水でふやかして、ウェットティッシュにして使ってたの」
 娘は「ふーん」と素っ気なく、もうトイレの話は飽きたらしい。
 衛生意識というのは、個人レベルで違っているし、ある程度の強制に当て込んでやらないと国家レベルでの成果は見越せない。けれど、ニーハオトイレや、おしりを手で洗うトイレのような習慣をもつ国のインフラや意識がすぐに切り替わることには無理がある。
 歴史をまたげば、古代ローマはトイレ及び上下水道に関して高い技術を持っていたにもかかわらず、水洗トイレは中世ヨーロッパには受け継がれていない。トイレの暗黒時代、排泄物は窓から投げ捨てられた。
 今では紫外線除けの日傘も、当時は降ってくる汚物除けの役目をした。ほかにもハイヒールやコート等のさまざまな発明品を、トイレの暗黒時代は生み出している。1371年のロンドンでは、汚物を窓から捨てるのが官史に見つかると、シリングの罰金という法律が出来ているが、糞尿が路上に棄てられ、ペスト菌を持ったねずみたちが繁殖し、14世紀にペストで死んだ人間は少なくとも2500万人いると言われている。
 外側の習慣が半強制的に動いたとき、そもそも反発心の備わる人々が、渋々ルールに従うのは、無意識のうちに過去に学んだ、これもまた習慣なのだろう。