フジコ・ヘミングの夕べ・Ⅳ ~夜は朝を抱きしめたあと静かに仮死し…~

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 あの大きな手から繰り出される繊細な音が、ここにいる人、ひとりひとりの無数の記憶を手繰り寄せ、感情を揺らしている。
 氏のラヴェルを聴きながら、感極まっていると、薄明りの方々から、すんすんと泣き声がする。
 ラヴェルで湿り気を帯びた胸に、リストの澄ました孤高の音が追いつくと、背筋が伸びた。曲はリストで続き、ラ・カンパネラで大喝采を浴びた氏は、立ち上がると、緊張を残した笑顔のあとに、声をふるわせて感謝の言葉を告げた。
 それからイノセントな静けさに包まれたホールは、アンコールでもう一度湧いて、この夜はテンペストで幕を閉じた。
 

* * *

 夜は朝を抱きしめたあと静かに仮死し、朝は夜の情熱を受けて世界を照らす。

 大きな猫じゃらしの波を横切って歩いている。このさみしさがどこから来るのか、考えていた。カネタタキは死んだ。多分死んだのだ。
 昨夜、電話越しに聞く母のこえは雨垂れのようだった。趣味で思うままに作っていた料理は今、父を回復さすために作っている。三度、三度、ボウル皿一杯の生野菜をもう見たくない、という。幼少期にいつまでも抵抗するかのような父の貪欲な食欲を、母は時々哀しがる。

 太った猫じゃらしを一本抜く。
 わたしの父は鈍感力に優れている、と思っていた。いや、違う、父はもう随分むかしに彼のもつ泉の奥深くに土を被せたのだ。誰にも見られたくない父の水脈に気付いた時、これまで母が娘たちにいつも口にしてきた言葉、たったひとつの口癖が、父の持つあらゆる感情を許容してきたのだと知った。それは言葉と多くの時間を過ごしていて、わたしの言葉は生まれて直ぐ枯れているのじゃないかと不安がるわたしに、また希望を与えた。
 わたしの終わらないさみしさは父の隠し持つさみしさと繋がっているのだろうか。いいえ、もっと、このさみしさはきっとあらゆることごとのさみしさとも繋がっている。

 その夜、父のこえを聞いていた。
 「虫がね、苦手だったじゃない、この秋は虫を以前よりも好きになったよ」と、わたしが言うと、父は徐に句を詠んだ。
 「ふるさとの 土の底から 鉦たたき」
 「父さん、俳句なんか知ってるんだ」
 「あなたが小さい頃に沢山やっただろう」
  記憶を手繰る。
 「あ、かるた!」
 じゃあさ、今度はクラシックを聞こうよ、一緒に。と誘ったら父はふんふんと曖昧に頷いて、もう寝るけんまたな、と夜に囚われてしまった。


 

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