Fujiko,H ソロコンサート2022

 父親はもういない。感染症の奴が、連れていった。
 開演前、隣席のひとと少しうちとけるなか、話題は音楽から海苔漁、医療と移り、さいごにそう聞いたのだ。
 今日、ステージには花がない。こんな時だからかもしれない。
 そのひとは、他のピアニストは聴かないと言った。
 クリークの水面に、生物や光が弾み、輝くイメージの浮かぶスカルラッティを奏でる氏を見つめる。いきなり演奏を始めてしまうところもまた魅力だ。弾くそばから、音は彼女の細胞に向かって流れ出し、指先から吸い上げられた音色を纏う神々しい姿に、全身でトキメいているうちに、楽曲は進み、黒鍵は閉じた。つぎに、別れの曲が開かれると、私は図らずも泣いていた。
 世界は抗えないことごとに満ちて、点滅を繰り返し、自身も笹船のように漂っている。
 フジコ・ヘミング氏が弾く革命のエチュードには、アンティークパッションが宿り、時空がズレる気分になって心地良い。
 ショパンを6曲終えて、余韻を残す薄暗いステージの上、静かにしているピアノを眺めていると、隣席のひとはCDを購入して席に戻って来た。帰りは混みそうだから休憩中にと言って、大事そうにバッグの中へそれをしまった。

 ラフマニノフを弾く前に、フジコ・ヘミング氏には珍しく、ぽそっとしたMCが入った。「ロシアのことがあるから、迷いました」
 でも、弾きます。と言って、プレリュード作品32-5を奏でる。オスティナート上に優美なメロディーが展開する。この繊細な音楽を聴いていると、世界の争いは気泡のように感じられた。こんなに美しいものが、永い時間を生き継がれている。

 何か別の観念が入ってこない時は、音楽を純粋に聞いているんだなと、後から気が付いたのは、亡き王女のためのパヴァーヌだ。
 音楽って、どうしても付属品がつきやすい。個別感情から時代の記憶に至るまで。音楽を聴いているようにして別のものに囚われやすい。
 去年この曲で流したじぶんの涙は、純粋さを欠いていた。フジコ氏は偉大だ。まず初めに音はある、ということを知らせてくれた。
 初心者である私は、夢の国に入り込んだようにクラシックを楽しんでいる最中だから、時々、友人に野暮な質問を繰り返す。

 コンサートが終わった夜、私のなかに、亡き王女のためのパヴァーヌ左の進行、バスの動きに対応する旋律の倚音が残り続けてしまった。左・低音の響きがあの曲をすごく支えているように感じて、
「あのねあのね、前に聴いたときと、音の残り方が違うの」と、母親のそでを掴むように疑問を投げかける。
 音楽の世界では不協和音を奏でたあとは協和音を奏でてスッキリさせる、という暗黙の了解があり、これのことを解決と言ったりもするのだと教わった。
 耳に残っていたのは、不協和音ではなく完全調和音でもない、不完全協和音のコードらしい。ふむふむ。
 感覚や感触が残ることはうれしい。
 私たちに向かって掴みかけてくる無数の音に畏怖する素晴らしい時間に感謝した。


―了―


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