ナポレオン=ボナパルト

 フランス革命直前の五月、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンボン大学の受講生であった。この頃革命に対して周辺君主国は反発。とくにオーストリアマリー・アントワネットが囚われ、つよく反発していた。
 王政を倒す革命など認めない。連合国の総司令官は、≪革命政府が国王一家の髪一本にでも触れたら、パリとフランス全土に血の報復を加える》と宣言。
 ところが反フランスの中心となるべきオーストリアはまたも皇帝の交代という事態にあった。
 王政に対する思い入れがないナポレオンは、マルセイユに移住し、ロベスピエールの弟オーギュスタンと知り合う。テルミドール派はバラスを国内軍司令官に任命し、ナポレオンはバラスの副官となって暴徒を鎮圧した。
 1796年から1797年にかけて、ベートーヴェンナポレオン・ボナパルトという名をしっかりと認識する。フランス大使ベルナドットは自国の英雄ナポレオンについて、ベートーヴェンに詳しく話した。ベートーヴェンフランス革命の理念に共鳴していたので、革命を完成させようとしているナポレオンに共感を抱く。1796年5月、ナポレオンの第一次イタリア遠征は、フランス軍が強行渡河に成功すれば勝利、それを撃退すればハプスブルク帝国軍の勝利という、目的が明白な戦いだった。
 ナポレオンの周囲には、参謀総長ベルチェや、第二統領・帝国大尚書長として留守居役をつとめたカンバセレスのような聞き分けのよい人物ばかりでなく、ナポレオンから独自の意見を求められたのは、外務大臣タレランと警察大臣フーシェであった。
 タレランは大貴族名門の長子である。彼は落馬事故により爵位継承権を失い、父の命で聖職者にさせられるが、オタン司教区には赴かずヴェルサイユの宮廷で享楽的な日々を過ごしていた。革命が始まると、タレランは全国三部会議員となり、教皇ピウス6世を激怒させた数々の教会改革を主導した。
 一方、フーシェは教育を主な任務とする修道会オラトリオ会の会士であったが、革命に身を投じた。反革命容疑者に砲撃を加えて全員を処刑し、『リヨンの散弾虐殺者』と呼ばれた彼をロベスピエール咎めたが、テルミドール事件を主導して自分が生き残ったという強者である。
 アベ・シエイエスは、自分の計画にナポレオンの人気を利用することに決めた。アベは僧侶の意味で、彼は聖職者出身であった。第三身分の代表として三部会に選出され、アンシャン=レジームを批判。1799年10月、ナポレオンはシエイエスに会った際、こう囁かれる「私とデュコと貴方だ」しかし、ナポレオンはそのクーデタ計画に取り込まれることを危惧した。
 ナポレオンの計画は議会主導のクーデタであり、三段階で構成されている。
①議会の危機を口実として、立法府の移動を求める。
②現職の五人(シエイエス・デュコ・バラス・ゴイエ・ムラン)から辞表を提出させて執行権の空白を伝える。それを埋めるために新憲法制定を含む新方針を受諾させる。
③総裁全員の辞職による執行権の空白は、総裁5名の選出によって容易に埋めることができ、新憲法制定に必然性がないこととする。
 結果ナポレオンに取り込まれる形で進むことになったシエイエス改憲派のクーデタ計画。セーヌ県執行委員のレアルは、ナポレオンの熱心な支持者であり、計画の実行日はブリュメール一八日が好適であると進言した。
 フーシェは一味に加わらないが、摘発はせず、むしろ親近感を増していた。カンバセレスも計画を知っていたが、好意的な中立を保っていた。
 ナポレオンは議場で白熱した議論を展開する議員連中がキライだった。議会や議員に対するナポレオンの不信、あるいは衆愚政治ポピュリズムに対する嫌悪は、共和8年憲法の定める選挙制度にも色濃く反映されている。

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 ドュゼ将軍はオラトリアンが運営する士官学校を卒業後、軍に入った。オラトリアンとはカトリックの司教と信徒たちが共同で暮らすコミュニティで、唯一、慈善による結合を旨としていた。ドュゼはストラスブール出身の3人兄弟で、兄と弟は王政派であった。
 1796年のライン戦にオーストリアのカール大公が参戦してくるが、ジュールダンの別動隊モロー軍の撤退の後衛を務めたドュゼは、その後イタリアのナポレオンに会う。ナポレオンはドュゼをひっさらうようにしてエジプトに連れて行く。ドュゼはカイロを攻略した後、上エジプトを制圧し、この地の統治を任される。彼は現地の人々から「正義のスルタン」と呼ばれ慕われた。
 二度目のイタリア遠征時、マレンゴの戦いを大勝利だとうそぶくナポレオン、しかしこの戦いは敗北すれすれであった。ナポレオンは重大なミスを犯す。敵主力が北方ミラノに向かうために渡河点を探して、自軍から離れるように行軍中だと誤認して渡河を阻止、決戦を強いるねらいで自軍を三つに分けた。この予想は外れ、敵主力部隊はフランス軍司令部がある東方へ進撃。敵将メラスは優位の笑みを隠しきれずにいたかもしれない。
 この危機をドュゼ将軍が覆す。ドュゼは後方から大規模な戦闘の勃発を告げる砲声を聞くと、ナポレオンの当初の命令を無視して駆け戻って来た。ハプスブルク帝国軍にとって予期せぬ奇襲である。身を捨ててマレンゴの勝利をもたらしたドュゼ。
 タレランやフーシェが期待していたように、ここでナポレオンが敗れていれば、歴史の流れは大きく変わっていただろう。
 ホアキン=フェニックス演ずるナポレオンは、躍動する四肢と、蒼く燻り続ける炎を閉じ込めた眼差しが良く。ジョゼフィーヌと出逢ったときの台詞「This is my uniform.」には、彼の魅力がよくパッケージされていると思う。
 1804年12月、パリのノートルダム大聖堂で行われた戴冠式のシーン。十字をきる司祭は動いている絵画のようで、感動してしまった。

 ジャ・ジャ・ジャ・ジャーン!
 ナポレオン即位のニュースを聞いて、激怒したのがルートヴィヒ=ヴァン=ベートーヴェンである。彼は『ボナパルト』と題した交響曲の表紙を破った。ナポレオンが皇帝になったのは、神聖ローマ皇帝に並ぶ者となった、との宣言であり、オーストリアとの全面対決の決意をあらわにしたことでもある。となれば、フランスへ行ったらベートーヴェンは二度とオーストリアには戻れないのではないか!彼は二者択一を迫られて、ウィーンを選んだ。ベートーヴェン交響曲第三番≪英雄≫は、50分に近い大作であるが、これはナポレオンを描いたものではない。

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1805年の凍てつくロシア戦。ハプスブルグ帝国軍の主力を率いてヴェネチアに出陣していたカール大公は、ナポレオンがイタリアに向かわずまっしぐらに首都ウィーンをめざしたことを知ると急遽北上を開始する。ところが、フランスのイタリア方面軍の追撃をうけてハンガリーへ転進。その隙にナポレオンはウィーンを占領した。北の軍事大国プロイセンは中立を保っていたが、中欧におけるナポレオンの敵対行動に苛立ちを募らせていた。ナポレオンはプロイセン外交との謁見に応じたが、最後通牒の手渡しを阻止してプロイセンの参戦を先延ばしにさせた。
 ロシア・オーストリア連合軍は、アウステルリッツ村西方広野の高台に布陣している。
 12月2日の早朝、プラッツェン高地の麓を厚い霧が覆った。それはフランス軍右翼を補強するために戦場へと馳せ参じてくるダヴの第三軍団を中心に、フランス軍の布陣の詳細を敵の目から隠した。
(なんかおかしいぞ)
 皇帝が2人も司令部に詰めているが、責任の所在が明確でない首脳間に動揺が広がる。
 ナポレオンは予備兵力に命じた。
「高台に登って攻撃し、敵部隊を分断せよ」
 この時、前触れなく厚い雲が晴れていく。
 連合軍部隊は、包囲されかねなくなった。更に総司令部を守る戦力は、事実上、ロシア皇帝近衛隊を残すのみ。連合軍は敗北の瀬戸際にある事実を、突然、輝く太陽の下に突きつけられたのである。

 映画ナポレオンでは、このアウステルリッツのシーンは見どころである。
 1806年、ナポレオンはフランスの保護下にライン連邦を組織し、西部ドイツをハプスブルク家プロイセンの影響力から切りはなす。これによって神聖ローマ帝国は有名無実化し、ハプスブルク家はその帝国をオーストリア帝国に再編することを強いられた。

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 大陸体制を構築し、いわばフランスが盟主となりヨーロッパ大陸ブロック経済化を進めようとし、同時に同盟諸国にイギリスとの通商を禁じる大陸封鎖を強いたことにより、封建的特権は廃止され、営業の自由が確立した。革命なしにフランスがその後も経済発展を続けられた可能性は低い。
 大陸体制とは、周辺の国々をフランス産業の市場及び原料供給地に仕立て上げ、それらを搾取してフランスの繁栄を遂げようとするものだ。大陸体制はナポレオンの発案ではなく、ロベスピエールを失脚させたのち実権を掌握したテルミドール派にさかのぼる。
 シャルル=ドラクロアは、政策を進めるため、フランス工業の市場とするべく地域を探した。彼は主に貿易商人の意見を聞き、スペインに接触し、1797年からスペインの宰相ゴドイと交渉を始める。当時のスペインは同盟国で、被征服国ではなかったため、ゴドイは不当な申し出を断固拒んだ。
 1806年10月、プロイセンはイエナ=アウエルシュタットの戦いでナポレオンに破れ、ベルリンが占領される。ナポレオンはベルリン勅令を発して、大陸封鎖の開始を宣言した。
 統治においてナポレオンは、人々に『パンとサーカス』を熱心に与えた。失業対策として大規模の公共事業で貧しい人々に仕事を与えて民衆を満足させた。国家主催の祭典では、食肉を中心とする豪華食材やワインを配給し、パレードやコンサート、一等に豪華な賞品が出る運動会(これは誰もが参加できた)花火やイルミネーションといった娯楽で、多くの市民に喜びをもたらした。

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 トルストイの『戦争と平和』を通じて知られたボロヂノの戦いは、ナポレオンのロシア遠征である。ロシア軍総司令官バルクライは、敵軍をロシアの内奥に引き込む戦略を取って、ナポレオンに何度も苦汁をなめさせた。バルクライは決戦を避けて撤退するばかり、その上、ツァーリの怒りを買って総司令官を解任される。その後釜のクトュゾフは、モスクワ川の流れるボロヂノ村近郊の広野を決戦の場として陣地を築いた。
 戦闘開始後、ナポレオンの指揮にかつての鮮やかさはなかった。前線のフランス軍は不満を抱きつつも、激戦に身を投じた。ネ元帥の奮戦により、動揺をみせたロシア軍に対し、ナポレオンは最後の勝機を見過ごすことになった。
 ロシア遠征から命からがら逃げ戻ったナポレオンは、徴兵繰り上げなどの無理を重ねてフランス軍を再建、苦境を打破するため弱体化したフランス軍部隊を率いてドイツに出撃するが、ライプツィヒの戦場に砕け散る。

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 エルバ島での蟄居を強いられていたナポレオンは、ナポレオン戦争の「戦後処理」のために開催されながら、列強間の利害対立が激化したウィーン会議での抗争を見誤った。彼は自分が調停者としてキャスティングボードを握れると誤認したのである。
 当時、エルバ島はナポレオンの脱出を警戒するイギリス艦隊によって封鎖されていたが、偶然封鎖が解けた瞬間にナポレオンが船を出したため、フランス本土への上陸に成功している。ナポレオンの迎撃に送られた陸軍部隊は次々と寝返り、ルイ18世に「逆賊を鉄の檻に押し込め、御前まで引っ立ててまいります」と見得を切ったネ元帥まで「皇帝万歳」と叫びナポレオンに合流。
 ルイ18世はベルギーへ逃亡し、ナポレオンは皇帝としてパリに凱旋した。
 1815年6月、ナポレオンは百日天下でヨーロッパ全体を敵とする戦いを強いられるが、その決着をつけた戦場がワーテルローであった。ナポレオン戦争はここに終結する。敗戦の将ナポレオンをフーシェが出迎え、ナポレオンは二度目の退位に応じた。
 国民から憎まれ、過去の人になったはずのナポレオンを取り巻く事態は、1821年51才での死去以降、徐々に変わり始める。
 島から帰還したラス=カーズが1823年に、『セント・ヘレナ回想録』を出版すると、フランス国民の間で大ヒット。暗黒伝説は消え去り、文豪ユゴーも反ナポレオンの立場を捨てて、ナポレオン伝説に熱狂。この変化により、復古王政の時代錯誤、とくに言論の自由の制限に代表される民衆の反発はつよく、ナポレオンを讃える声が相次いだ。
 三百人のエキストラ、百頭の馬、砲撃。無数の壮麗な絵画が織りなすような映像である。英雄か悪魔か、というフレーズをナポレオンひとりに纏わせてはいけない。


―了―


参考・引用文献 図説ナポレオン・松嶌明男 河出書房新社


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