夢十八夜

「第十八夜」

 

 彼はいつも長い黒髪を丁寧にといていたし、彼はいつもロッキングチェアーに揺られながらクラシックを聴いていた。

 

 少女は彼という大人が周りの誰とも異質であるようすを幾度となく見かけるのだが、彼という大人から気味悪さを感じとることはおそらくなかった。

 周囲の大人は彼という大人のウワサバナシを時々口にしては眉をしかめ合っていたが、少女から見た彼という大人はシルエットで、むしろ周囲の大人たちこそ、彼の家にひしめき合っている猫たちと同じようだと感じられるところがあった。

 彼という大人は捨て猫を拾い集めていたようだ。少女の家とは隣家だったから、むろん少女の家の屋根や干し場や車庫、そちこちに隣家の猫らは現れた。片目に深い傷を負う独眼竜、紫色の神秘的な瞳を持つ美しい猫にはヒヤシンスと名付け、闊達に飛び回る茶トラは弁慶と呼んだ。入れ替わり立ち替わる猫ら全てに名を付けるのはむつかしかった。増え続け消え続けるから少女は猫らを把握出来ずにいた。

 さて、彼という大人は猫らよりずっと大人しく、言葉を発さなかった。少女は隣接する二階の窓から見えてしまう彼という大人がいつか前触れもなくこちらを向いてニヤリと笑ったりしないだろうか、または睨みつけてこないだろうか、と気を揉んだこともあったが、少女のレンズに映る彼という大人はいつでも窓の方を見ないから、その腰まで伸びた黒い髪と、やや肉厚の比較的大柄なシルエットだけがいつも巨大な蝋燭のように揺れていて一向に定まることはなかった。

 開いた窓は少女の部屋の出窓と少女の家の屋根を隔ててすぐだから、内部はよく見えたがヨソノモノをあまりじっくりと知ってはならないような道徳めいた自制心が少女の片目をつぶらせた。

 

 片目で見えたもの。

 部屋の中央に大きなロッキングチェア、それは藤の揺り椅子であった。彼という大人が針を置くと回り出す烏色の円盤からはとりわけリストが流れ出す。少女はその頃クラシックピアノを習っていたから漏れ聞こえる音に不快感はなかった。しかしあるとき少女の母はこう言った。

「お隣のゆうれいはきっと頭が良過ぎて変なのよ。むつかしそうな本ばかり読んでいるらしいもの」

 どうやらボランティアの仲間に聞いたようだ。彼という大人の借りにくる本は専ら哲学書の類らしい。そのせいか、少女の母親は哲学書を彼女に買い与えたことはなかった。名作好きの母だのに、少女に沢山の本を与えた母はついに一冊の哲学書も与えなかった。

 

 田舎町の真夜中には澄んだ空気と少しばかり輝く星に川のこえやパチンコ屋のネオン、自販機の灯りに集まる虫の羽音。それくらいのものしかなかった。しかしそれだからこそ彼という大人はそのさびれた夜の中をさまようのかもしれなかった。彼という大人は何故日なかを歩かないのか、彼という大人はいつ頃じぶんの世界から日なかを切り離したのか。

 

「だからアレはジヘイショウというのよ」

「夜中の二時頃キイキイ音がしてね」

「うちも見た見た、そろっとカーテンをめくったら自転車でふらふらして」

 

 深夜の散歩の何がそんなに悪いのか。少女はぼんやりおもった。真夜中にこっそり食べるラーメンがとびきり美味いのと似てるんじゃないかって。思うことごとには口をつぐむ。だって思ったことごとを口にしたら否定される、それだけは分っている。

 

「回覧板を届けてくるわ」

「駄目よ、ゆうれいが出て来たらどうするのよ」

 

 大人は「変」に気付いていないよ。煙草を買いに行かせるのに回覧板を届けちゃいけないの?

 

 少女がどうしても行くときかないものだから、それならじぶんも行くと言って母親はつっかけを履いた。

 

 彼という大人の住む家は松の木に囲まれてひっそりとした玄関先にいつでも数匹の猫が丸まって目を細めている。

 

「こんにちは」

「どうも」

 

 出てきたのはおばさんと二匹の白い猫だった。木綿と絹。少女は直ぐに名前をつけた。回覧板を手渡す時おばさんは少女の顔を見たがにこりともせず、その顔からなにかとくに際立った表情は見つけられなかった。

 

 

 少女は今、夜風に乗じて走るペダルの回転音を聞いていた。リアキャリアに尻をつけ、腕は、そう、彼という大人に触れるのはためらわれ、やはりリアキャリアにつかまっていた。眠る草花に語りかける月光。民家の庭先から香るマグノリア・ココ。彼という大人は信号を無視して速度を上げた。無言のまま川沿いを漕いでいる。昼間、濃く強く茂る夏草はもたれ合い、舗装されない道端にクマゼミの死骸が落ちていた。

 

 タララ、タララ、と歌う声が瞬く間にトラックの音にかき消される。

 

「なんのうた?」

 

 少女が聞いても何ひとつ応答はない。あれは河川敷に眠るホームレスのうただったのかもしれない。少女はいつも別の可能性を想像することで自ら慰める。

 

「おはよう」

 隣室から母が来て、少女の部屋のブラインドを上げ、窓を開ける。

「ゆうべは良く眠っていたわね」

 ステレオから低い音が流れている。

「またラジオをつけたまま寝たのね」

 少女が応えないでいると、隣家から大音量のパガニーニが漏れ出した。

「うるさいわね」

 母は出窓に身を乗り出す。隣家のシルエットが今日はふたつ、せめぎ合うように揺れている。

「さ、あなたは朝食のあとピアノのお稽古でもなさい」

 

 彼という大人ももう、すし詰めになった猫たちに喰われている。リストのしらべは猫たちを落ち着かせることなく寧ろ狂騒に駆り立て、彼という大人を創作したアダムとエヴァはマジョリテイとマイノリティの両側にある狂気に晒されて立ちつくす。

 

 閉ざされた頁の中に居るミシェル・フーコーだけが、そのすべてを睨み続けていた。

 

 



 

 

#ミシェル・フーコー