アナンケ

 戯曲は面白い。スタン、スタンと、作者が鉱石を掘り出すように岩を割る音が聴こえる。

 カジモドはゼウスの妻ヘラに捨てられたヘパイストスを思わせる容貌で登場し、彼の扶養者である副司教のクロード・フロロとの間では二人にしか分からない身ぶりの言葉を通わせる。さながらヘレンとサリヴァンのようだ。
 若き劇作家のピエールと美しいジプシーの娘エスメラルダの出逢いは、ヨカナンとサロメに似ていたが、娘は王女ではないし、ピエールの首にキスを浴びせ狂う程にはピエールを愛していない。咄嗟の人助けに過ぎなかった。
 作中では、罪なき者たちが罪に問われ、思い込みたがりの人々は彼ら無垢の罪人に悪態をついた。人々はイミテーションの目を光らせ、ジプシーの娘エスメラルダは鞭打たれるカジモドに、水を飲ませる。
 赤ん坊の頃さらわれた、このジプシーの娘と、捨て置かれたカジモドの対比がふたりの生をより強烈に炙り出す。
 ジプシーの娘エスメラルダが若い劇作家ピエールを助けた時、宿なし集団のボス、クロパンはワインの入った大きな壺を割るが、このとき壺は四つに割れた。そこでエスメラルダとピエールは四年間だけ夫婦になってしまう。

 フランス革命後、キリスト教厭忌のなか、四年の間、キリスト教にまつわるものが破壊され、ノートルダム大聖堂も内側はボロボロになった。カトリックの『神は大聖堂にいる』は百聞は一見に如かずで、後のプロテスタントに繋がる『神は聖書のことばにいる』は、百聞ということか。フランス革命以降ナポレオン参上までの歴史は面白い。
 時はもっとさかのぼるが、クリストフォロスという男がいた。彼は権力のある主人を求めて、国王や悪魔に仕えたが、隠修士がこの男に川の渡し守になるよう進言する。
 漱石夢十夜・第三夜もパロディとして在るが、この夢十夜が面白いので自分もひとつ書いてみた。

***

 海の上を歩いている。確かに水面を歩いている。只不思議なことには鉄の外套を羽織っている。裸足の指で水を掻き歩いていると、海鳥が傍へ飛んできた。
「身軽そうだな」
「貴方も直になるさ」
 姿は赤茶けた海鳥に違いないが、まるでしっかり言葉を話すオウムのようである。しかも対等だ。
 見渡す限り海と空である。陸はない。波はほぼ無く、時々遠くの方でしぶきが上がる。
「鮫が来るね」と、海鳥が耳もとで言うから
「どうしてわかる」と、聞いたら
「だって貴方、ほら、足を怪我して血が流れているじゃないか」と答えた。
 すると鮫が果たして二基の背びれを水面に突き上げた。
 自分は大海を少し恐れた。こんな海原を歩いていては、この先どうなるか分からない。どこかに船は出ていないだろうかと辺りを見ると、水平線のかなたに大きな船が見えた。
 あそこへ歩こうと考え出す途端に、ふうふう笑う声がした。
「どうして笑う」
 海鳥は返事をしなかった。只、
「貴方、不安になってきたね」と聞いた。
「不安ではない」と答えると、
「今に不安になるよ」と言った。
 自分は黙って船を目標に歩いた。群青のうねりが時々足をとらえて中々思うように進めない。
 しばらくすると風がすっかり止んだ。海は静かになり、陽光を浴びた水面がちらちら輝いている。
「何かいるね」と、海鳥が言った。
 成程群青に黒い影が差した。直立する大きな背びれが浮上する。シャチなのか。急に汗が噴き出した途端、何かに足を取られたようにずんと腰まで身体が沈んだ。
「怖がらんでいいさ」と海鳥が言った。
「この鉄は脱いだほうがいいだろう」と聞いたら、
「しかし脱いだら直ぐに喰われるね」と答えた。
 嫌なことを言うと思いながら、自分は背びれの動きに怯えながら、腕でそろそろ水をかいた。腹の中では、ただの海鳥が何故こうも指図してくるのだろうと考えながら、自分たちと違う方角に向かう背びれを見送って歩いた。
「あたたかいな、いくらか浅瀬に入ったのかい」
 身体は再びくるぶしの浸かる程度に浮上していた。
「さあね、そんな気がするんだろう」と言って、海鳥は自分の周りを旋回した。ヒュルル、ヒュルルと鳴いている。何だか厭になった。どこまでついて来るのか、早く船へ行って鉄籠にでも押し込めてしまおうと思った。
「もう少し歩けば解る。 ― 丁度こんな景色だったな」 と耳の後ろで独りごとのように言っている。
「何がだ」
「何がって、知っているじゃないか」
 海鳥が嘲る。すると何だか知っているような気がし出した。しかし判然としない。只こんな景色であったように思える。そうしてもう少し歩いたら解るように思える。解っては大変だから、解らないうちに海鳥の首を絞めてしまって、安心しなくてはならないように思える。
 水平線に赤い陽が沈みはじめた。海原はだんだん黒くなる。殆ど夢中である。只わたしの頭の周りに海鳥がくっついていて、そいつが自分の前世たった今とこの先をことごとく映し出し丸裸にする鏡のように光っている。鉄の外套が先ほどよりも重く感ぜられて息苦しくなった。
「着いた、着いた。あそこだ、あの船首の処だ」
 風を受ける帆音の中で、海鳥の声が響いた。十数の櫂の前に髭面の男たちが立っているのが見えた。
「海賊討伐を命じたね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「17世紀の終わりだろう」
 成程17世紀の終わる頃らしく思われた。
「お前が俺をギベットに入れて吊るし、見せしめにしたのはあの船だったね」
 自分はこの言葉を聞くや否や、ひとりの男を絞首刑にしてひと型の鉄の檻に入れたという自覚が、忽然として頭の中に起こった。闇の海原をつんざくような笑い声が響き渡った。それを聞いて大きな不安が頭をもたげた時、わたしの身体は海に沈んだ。

 

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