音は言葉を超えてしまい、言葉は音の恩恵を存分に受けてしまう。
某日、私は紀尾井ホールにいて、ステージ上に飾られた大きな丸い玉を見つめていた。一階隅の座席に深く腰を落ち着け、弾む心臓の音を聞いていると、座っていた私の隣に来た品の良い老婦人に、そっとたずねられた。
「あの花は何かしら、わかる?」
生憎、視力が良くはない私は、席を立って「聞いてきますね」と応えた。
千ほどある席は未だ人がまばらで、ホール内には繰り返しアナウンスが流れていた。
-この度は新型コロナ感染防止対策の為、マスクの着用及びブラボーなどの声援はお控え下さい―
パンデミックの拡がりからこっち、祖父の死、転職、偏向する家庭、いくつかの思いがけない否定にあって、もう何かを頑張ることの意味もないのかもしれないと思いだし、しばらくは誰のどんな慰めの言葉も、耳もとをぬらっとなめていく不快な音のつらなりであった。今は、励まされていたことに感謝しているが、去年は、ただ毎日死にたいと思っていた。つよく、死にたいとまでは思わなくなっても、悲しみが押し寄せてくる夜からは、思うように逃れられない。
「悲しみが止まないときって何してる?」
友人らにたずねるとさまざまで、映画の世界にひたる(これは結構集中力と体力をつかう)、TVショッピングで要らぬ高級フルーツなどを爆買い(財布が痛む)、酒をのんでふて寝するに限る(うらやましい、私は飲むと目がさえてしまうか中途覚醒してテンションが上がったりする)皆、それぞれに処し方を持っているなぁ、大人って。
色々試した結果、悲しいときのじぶんは、クラシックを聴いている。
思うに、これはカネタタキの夜から始まった私の小さな儀式みたいなもので、扱いきれない感情の波を、より大きな波にゆだねることで、鎮められるのだと感じている。
【カネタタキの話は、また後日】
もうとっくに何度もおぼれかけては越えてきた彼ら、リストやバッハ、ショパンの波は、生きたものを乱暴にさらうだけの波じゃない。
花の名前を聞くついでに、ミネラルウォーターを一本買って会場へ戻ると、老婦人の隣にやはり品の良い白髪のパートナーが座っていた。何かを観るときにたいてい一人の私は、老夫婦をちょっとうらやましく思った。
「あの花はダリアです」
「そうなの?ありがとう。あんなに大きな球体になってしまうと分からないものね」
「単一色ですしね」
ステージの柔らかい照明がマゼンタのダリアのかたまりに注いでいる。
フジコ・ヘミング氏が好きだ。とても好き。
はじめは音に惹かれた。そのあと彼女の話を繰り返し聞いた。そこには虚飾や誤魔化しが感じられない。ゴキブリのダンスには驚いた。生きとし生きるもの、全てへの愛。
彼女の何気ない話は、すぼんだわたしの魂を救っていた。
―つづく―