フジコ・ヘミングの夕べ・Ⅰ

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 そばにあると思っていたものが、突然遠い。
 距離とは何だろうと、このところ考える。今このホールで、皆ちがう席に着いて彼女の音を聴いているけれど、最前に座るのと一番後方で座って聴くのとに、物理的距離以上のことはないと感じるようになった。
 若い頃の私なら、ダフ屋を使っても最前列をとって聴いた。
 隣に座っている品の良い老夫婦がうれしそうに頭を揺らしているのを見て、私も一緒に頭を揺らす。曲はノクターンで、開演の前に老婦人はこう話してくれていた。
「娘にピアノを習わせていたの、思い出がある曲はいいわね」

「今もピアノを?」
いいえ、と柔らかく頬をゆるませ、老夫婦はプログラムに視線を落とした。
「つづけるには大変ね」

 

 曲はエオリアン・ハープに移っている。全集中で今、この音を聴いている。そしてこの時を全身で記憶しようとする。多くはこぼれ落ちて記憶も曖昧になるのに、何かひとつ、鮮やかに取り出せる何かを掴みたがる。
 音のなかに灯る小さな記憶は、大きな記憶箱になってしばしば保管される。

 *** ***

 ゆら、が風邪をひいたので、具の沢山入る寄せ鍋を作ることにし、泥つきの牛蒡と人参を洗い、大根に長葱、白菜も洗う。きぬの豆腐、鶏の手羽、手作りの鶏団子、豚の薄切り、細い饂飩と、ほんとうは茸類を加えたいけれど夫が嫌うから我慢する。

 茸はホイル焼きにしてひとりで昼食にいただこう。呟きながら牛蒡を太めのささがきにし、人参と大根をたんざくに、白菜をざく切り、長葱を斜め切り、野菜をいったんざるに移してから鍋の底に昆布を敷き水を張った。

 九月に入り、方々から、身体を調子が崩れるね、と聞く。夏のよろこびと疲労が秋の入り口でいったん毒を抜いて、そういう境目の頃はたいていのひとが無理をしないように、そろりと過ごすだろう。

 鍋の底に敷いた昆布と張った水のなかへ牛蒡と人参と大根、手羽肉を入れてひと煮立ちさせアクを取り、次の具材を加えて蓋をした。同時に別鍋で細い饂飩を少し芯の残る加減に茹でる。残った長葱をラップに包みながら、やはり白い方が美味しいよね、とひとりごつ。実家では、長葱の青い部分を棄てるのが常だったが、青い部分の内側にある<ぬる>に免疫力を上げるちからがあるらしいと知り、棄てずに食べるようになった。

 小鍋では乾麺がしなり出し、大鍋と蓋の隙間を押し上げる蒸気に火を細める。乾麺をざるに上げ、ふつふつと煮える大鍋に醤油をまわそうとした時だ。醤油の瓶にはりついていたらしい彼が、さっとコンロの傍へジャンプした。

 こんばんは。初めまして。こえだけは聴いていたのよ。そこは熱いから、外へ出してあげようか?それともうちが心地良い?

 彼は想像していたよりつぶらな愛らしい黒目で、逃げずにじっとこちらを見ている。想像より薄い色をしていた。今なんて何でも直ぐに調べてしまえば分るのは解る。だけど、わたしは彼の姿を見るまで彼についてのことを調べなかった。分った気になりたくなかった。

 そこにいたら火傷をするかもしれない。こわくないから、と手を差し伸べたけれど、彼はじっとして、細く長い触角を揺らし、私のほうへ向き合っている。コオロギのいとこのような姿をしている。腹の周りが身体全体の薄い飴色より少し濃い。

 あなた、バイカラーのおしゃれさんだね。料理酒はいかが?一杯やりません?と近づいたら飛び上がって姿を消してしまった。

 残念、せっかく逢えたのに。

 それでも少しだけ何か通い合った気もして、わたしは寄せ鍋の味付けを終えて傍にあった電子ピアノの黒い椅子に坐って弾むような気持ちでいた。リビングの隅に置いた電子ピアノの椅子を、ゆらは自分の身体能力のひとつのように持ち歩きまわるから面白い。歯を磨く時、トイレの電気をつける時、お米をとぐのを手伝うとき、高い場所へ上げた鋏を取る時、ゆらはこの椅子をえっこらえっこら運んでは踏む。

 もの哀しい夜は続いていた。
 もっと若い頃は捉えきれないさみしさを、他人やお酒や趣味や、そういった違うものごとで埋めようとしていた、と思う。しかし代替えは代替えであり本質から目をつむり続けただけなのだ。

 わたしのさみしさも根が深い。と、更に自覚したのはおそらくここ一年くらいの間で、同時に様々なひとのことを思った。彼らのもつ感情は彼らごとにどこが一番深いのだろう、と。

 夜は深く、ゆらが眠り夫が眠り、生活の音も寝静まる頃に、彼は鳴く。
 始め、外から聞えるのだと思った。晩夏の虫らは我よ我よと長鳴いて、ときには風情を通り越してやかましいくらいだが、それでもやはり哀れである。
 虫のこえというのは、日本人とポリネシア人にしか聞こえないのだとか。さすればうちの父さんは外国人なのかしらぁ、と、まあ父さんに情緒があまり培われておらないのは置いて、お台どころのあたりで鳴くのはどうやら一匹らしく、ほかに重複するこえはない。
 わたしは二階で読んでいた簡単な仏の本を山形に伏せて、じっと耳を欹てる。

 チッチッチッチッチッチッチ。7回鳴いた。そしてしばらく鳴かないでいる。

 伏せた本を戻して≪金剛夜叉明王≫のところを読んでいたら、また7回鳴いた。規則的に鳴くのだなと感心した。

 独りでいるからさみしさに追われるのだと、ひとはよく言った。それなら子を持てば苦痛がうせるのかと、やってみた。ちがっていた。

 廊下へ降りて電気をつけた、するとさっきまで陽気に鳴いていた彼はじっと息を殺し、待てど待てどの静寂。そのうち冷蔵庫が唸り、明けの烏が啼き、彼はその日はもうチッとも言わなかった。

 つづく