白い夜の月 5

 スケッチおじさんと呼び名がついたそのひとは、ルックスは 、そうだな……できるかな、の、ノッポさんに似ている。50歳くらいの不思議なひとで、いつもスケッチブックと色鉛筆を持参しており、エスカレーター脇にあるベンチに座ってなにか描き始めるのだ。スケッチおじさんの座ったところから映る景色はちょうどわたしの立つ半月のショップだったから、初めは気にしないでいたが、ひと月目あたりからなにか落ち着かなくなり、ハラちゃんに話したところだった。

 なに描いてるんですかね。

 今さら聞けなくない?話しかけるのも勇気いる。

 マネージャーに言ってみましょうか。

 描くほどの被写体じゃないんだけど、なんとなくこの店が好きなのかも。

 あのベンチまで覗きにいく勇気はない。ときどき身体のなか、あの内側が痒くなる、あんな感じがする。

 うちの方に満足したらハラちゃん側にうつるかもね。

 うえ、やっぱマネージャーに話しましょう。

 噂をすれば、夕暮れに、サスペンダーのおじさんはやって来た。どうも仕事帰りという風情と違う。内線でマネージャーを呼んだ。まきこの腕の片方で関さんという男性だ、ムーミンのような安心感がある。

 関さんはいつものように穏やかな口調でスケッチおじさんに向かって行った。わたしたちは眺めていた。ふたりはなにか言葉を交わしていたが、突然、スケッチおじさんは色鉛筆を床に叩きつけ、俺は描いてるだけだ!触ってもいない、と大きな声をあげた。初めて聞いた声がマイナスの感情から発せられた声で申し訳なく思ったが、いまのところ皆が吸っている空気のようなものに、弾かれるのはおじさんの方になってしまう。弾かれたおじさんの世界は、じつは違うのかもしれない。おじさんの世界をこちら側から見ているだけで弾き出してはいけないのだろう、ほんとうは。

 なんとなく心が疲れ、給料日前だったからお金もなく、まきこが終礼で皆に配ったねぎらいのビールを片手に社宅まで歩いた。とぼとぼ歩いたら10分で着く。社宅はバスルームと洗濯機が共有になっていて、バスルームはふたつあるが、この社宅には10人弱の入居者がいるのでタイミングが悪い日は待たされる。部屋に入るとグミが溢れてくるから、広い屋上でビールを飲みながら洗濯をして、バスルームの順番を待った。
 
 わたしはおなじ夢を繰り返し見続ける子供だった。
 悪夢に名前をつけていた。
 〇届かない魔女(あるいは満たされぬ魔女)
 〇公衆電話の腕
 〇振りかえる翁

 洗濯とバスタイムを終えて部屋に戻り、ビールを一缶飲み干すとうとうとし始めた。


* * *


 牛蛙の鳴く沼池は、おばあちゃんの家からほんの200メートル先にあった。鉄線で囲まれる以前は、ぼうぼうの萱で覆われていた。

 ご飯の用意するけんが、お外で遊んでいらっしゃい。

 おばあちゃん孫たちを外へやった。年長のわたしと、いとこの女の子とわたしの妹、いとこの男の子はまだ4歳だった。おとなしかったわたしはやはりおっとりした4歳の男の子を可愛がっていて、妹といとこの女の子はよく掴み合っていた。沼池のそばに座りこみ、誰のものでもない雑草をちぎって、服にくっつけあったりして遊んでいた。4歳とわたしは楽しんでいたが、他のふたりは面白くないらしく、沼池に入ろうかとささやき合っていた。沼池は赤茶色で、ちょっと不気味な佇まいをしていた。先に飛び込んだのはいとこの女の子だった。2秒くらいで声が飛んできた。

 助けて!

 見ると彼女は身体の半分近くを沼池にとられていた。咄嗟に片足を入れたがわたしも足首をとられそうになり思いきり足を抜いた。靴はとられてしまった。

 そこで見とって!

 おばあちゃんのところまで走り、おばあちゃんを引っ張って来たとき、いとこは胸まで浸かっていた。それからおばあちゃんとわたしは交互に彼女を引き出した。子供のわたしより、やはりおばあちゃんの力は凄いもので、いとこの女の子はなんとか助かった。わたしはおばあちゃんを見て、彼女の勇士に惚れ惚れしていたが、皆しばらく青ざめた顔で沼池を見ていた。

 あのときの光景がそのまま再現された夢だった。違っていたのは沼池からぬーんと現れた牛蛙がヤマカガシを飲み込むシーンだった。わたしはおばあちゃんと夕涼みの散歩をするときに聞く牛蛙のこえが好きだった。

 

 

つづく