シーグラスの池

 用はないのに足を運ぶ店があった。子どもの頃、私にとって、雑貨屋さんはそういう場所だった。
 フランフランアフタヌーンティのように大型のものじゃなく、もちろん100円ショップもない頃。町の雑貨屋さんにはそこだけの空気が漂っており、子どもの私は照明の少ない狭い店内をうろうろと眺め回すのが好きだった。
 ビーズタペストリー、更紗のランチョンマット、八部衆のような銅人形が薄明かりの中からギョロンとこちらを見つめる目。陶器製の小さな置物を見ているのはとりわけ楽しい。それはまるで童話の世界から踊り出してきたように子どもの私を楽しませてくれた。
 ぬらぬら光る毒りんご・脱ぎすてられたガラスの靴・深い茨に咲く愛らしいバラ。
 ある時、お店のひとが声をかけてきた。
 「熱心だね。好きなものがあるの?」
 私は急に緊張して、返事をすることが出来なかった。
 そして数日経って、私はこの雑貨屋さんで初めての買物をした。一個五十円のシーグラス(ガラス石)を二十個。当時は未だ消費税がなく、きっかり千円札を払ったのを覚えている。水色×5・ピーコック×5・レモン色×5・黒曜石に似た黒×5。


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小学校低学年頃まで、友だちという概念がとても希薄だった。いつも一緒にいる女の子はいたけれど、それは母親同士が親しくしていたからなのかもしれないし、何となく一緒に居やすく、互いに大人しい為、摩擦も少ないし、大きな声を出したり、笑い転げたり、つかみ合ったりするタイプではなかった。

――子どもの頃。アナタの居た場所はどこですか?
 それぞれの人に、落ち着く場所や、気がつけばいつもここに居るという処があるだろう。子どもの私には、二階廊下の隅に置いてあった本棚の前と庭がそういう居場所だった。 小さな庭だ。鉄のサビたスコップと、じょうろを持ち、土が柔らかい場所を探す。そこに両手を広げたくらいの穴を掘った。深さは15センチほどの。ビニールシートを張って、じょうろの水を注ぎきる。
 穴の周りにシーグラスを並べた。この小さな手作りの池に、紫色の金魚を飼って眺めたいと思った。
 果たして紫の金魚はどこにいる?思い出すと止まらなく、祖母の部屋へ行って、たずねた。
 「次の縁日がきたら、紫の金魚が欲しいよ」
 「そんな色の金魚はいないよ」
 「だって緑色の瞳をしてる人はいるでしょう」
 祖母はあきれた顔をして、私を膝に乗せた。
 「金魚よりホラ、いっしょに遠山の金さんを見よう」
 桜吹雪がピンク色した金魚の群れでも、金さんはこんなに凛々しいだろうか。
 「今日も英樹はいい男だね」と祖母は嬉しそうにしている。
 子どもの私も、こくこくうなずいた。


―つづく―