マネキン

 半年もの間、裸のマネキンはフロアの端に寄せられていた。そこは郊外のショッピングモールで、閑散とした店の並びを見ていると、古い記憶が引っ張り出されてくる。
 故郷のアーケードはかつて栄えていた。全蓋式アーケードに立ち並ぶ店は、多種雑多の賑わいをみせていたし、片方の穴から入ってもう片方の穴まで閉じられた空間は面白かった。
 正確に言えば、穴はリコーダーのように、ところどころ空いているし、この、どこから入っても出てっても「どうぞ」といったつくりが良く、デパートの回遊性とは違う。
デパートは家族で商店街は親族、御近所さんといった感覚が私の中にはあり、それは、かつてデパートで働いたことがあるせいかもしれない。一方で、デパートはメリーゴーランド的陶酔感の後に、感覚をゆがめられた気持ちわるさも残る。それは金銭感覚だけの話ではない。選んでいるようで選ばれているからだ。悪いことじゃない。ひとは習慣に従順だし、感覚器は自分で思っているより無意識に反応するからだ。
 エスカレーター脇を陣取れたショップは、ディスプレイに余念がなく、奥まった見つけにくいショップにはカリスマがいたりして顧客を離さない。そこで観客は選ばれたひとになり、夢心地でいっときを過ごせる。それだってとても良い時間なのだ、双方に。
 のべ6年、婦人服を扱っていたが、ディスプレイしながら、私はいつも思っていた。
「動くわたし達は、何故この静止したマネキンが魅せる服をステキだと思うのか」
 今は、スマートフォンの画像を視覚でとらえ、もっと動きのある姿を見ていられるが、それにしたってフィッテングは大事で、誠実に接客をするとほとんどの人は試着室に入ってくれる。勿論フィッテイングを嫌う人もいるから、そういう時は、裸のマネキンの存在はありがたい。
 動かない白いマネキン、あるいは胴体だけのボディーに着せる服に、多少なりとも動きをみせることを、よく考えていた。
 照明、つまみ、風を送る、足もとの靴を歩き出すようにディスプレイする。指先にノベルティーのペンを持たせたり、工夫が楽しい。
 半円形のガラス什器に8色のラメ混ニットなどを並べると、華やかで女心をくすぐる。通路側のラックは、ドット・マーブル・花柄・レース・色とりどりのスカートで溢れ、個人的には普段ちっとも聞かない流行のJ-POPだって流す。曲は気分で変えない、あくまでその時期ゝの売り場をどう展開させるかだ。接客スタイルは人それぞれだし、合ったお客様がつく。
 私はこの動かないマネキンをいつも視界の片隅に、フロアを動きまくっていた。人形たちの分まで動いていないといけないような、妙な衝動に駆られていたのは確かで、人形があまりに威圧してくる感じのするときは、マネージャーに言って、違う人形と取り替えたりもした。
 個人的感覚ではマネキンの存在感はただごとではなかった。幼少期に祖母に連れられていった美容室に並ぶ何体ものマネキンの頭が記憶にこびりついいている。祖母はそれらを「首ころん」と呼んでいた。
 マネキンは動かないゆえに、人間の余計な感情を揺さぶらないのかもしれない。痩せたり太ったり、汚いことばを使ったりしない。表情がない。もともと死んでいる。生きていないからこそ、まとうものを生かせる。


つづく