春よ来い

 指の間を柔らかな毛がすべる。つとっ、と、芝生の上に前足をついたバッハは鼻先で草を嗅ぎ分け、だいたいいつもの位置で用をたした。わたしは見計らって彼にロープを投げ、それは花壇の上に落ちる。”ヨシ”と言うまで彼は待つ。生後4カ月頃にしつけた頃からそうだ。とても聞き分けが良くて、あんまり健気だから、時々わたしは涙ぐんだ。
 いつも私より先に玄関へ走り、早くドアを開けてよと催促するバッハが、近頃芝生の上でじっと石像のように動かなくなるのは、物言わぬ生きものからのメッセージだったからかもしれない。しかしドアを開けたらおチビさんが泣きわめいているので、彼の話をじっくり聞いてやることがままならぬ。
「ほら、君たち、もうじきにおばあちゃんが来るから」
 会談に取り付けた柵をしめて、バッハを中二階へ連れて行ったあと手を洗って、階下でわめくチビのもとに走る。前かがみになったわたしめがけて、おチビさんは全身で抱きつき、器用にわたしをよじ登る。
「そんなに必死にならなくてもママは居るから大丈夫」
 しばらく抱いて歩いていると、今度はおろせと腹を蹴ってくる。長泣きもしないし長くぐずることもなく助かってはいるが、起床から就寝までほぼノンストップで動き回るおチビさんを相手に、一日の始まりには満タンの育児エネルギータンク、19時頃には20%、最後の寝かしつけのときには2%くらいになっている。何人かの同じ月齢の子がいるママと子どもを遊ばせながら話をしたり、子のようすを見ていて気づくが、うちのおチビさん、いささかヤンチャ者のようだ。
「あなたに出逢っていなかったら、ママもっとのんびり暮らせていたのにぃ、このぉ」とか言いながら膨れたお腹をぱふぱふしてやると、うきゃ、あきゃ、にゃは、と声をたてて笑うようすがひどく愛らしい。この笑顔、乳幼児をもつママ達の慢性的な育児疲労を和らげるカンフル剤だなぁ。しみじみ見つめていると、にやっと笑ったおチビさんの手がわたしの頬をガリッとかすった。痛い!と声を上げるとおチビさんは白い歯をのぞかせ、勝ち誇った笑みを向け、両脚をぴょんぴょん屈伸して喜んでいる。
「君は野良猫みたいだね、もっとほら、巣のなかで羽根ふるわせて親鳥を待つ雛みたいでもいいよ」
 お決まりになったディズニーのDVDをかける。アナ雪なんかもう百回くらい視聴してしまった。ママこれもう飽きたよーと言っていたら、小さい子には同じものを繰り返し見せた方が良いから、と、パパは自説を曲げないのである。
 『エルサー』っと、 アナが呼んだとき、ガレージから「ハイ着きましたよ」と、甲高い声が響いた。
 半年ぶりに会う義理の母は以前より柔らかな空気を纏っていて、少しほっとした。
 「結婚していなくて、健康が続いて、定年がなければ、ずっと仕事だけしていきたかったのよ」と言われていた頃にはあまり感じられなかった落ち着いたようすで孫を抱き上げた。
 義理の母と離れる前日、長く勤務された仕事の引き継ぎが終わり、徹夜で荷造りをしているのを見守っていた。荷造りを手伝おうかと何度か声を掛けたが、ひとりでやりたいからいいのよ、と黙々と作業を進めていた姿を思い出す。わたしはあのとき、邪魔にならないように彼女の靴を一足ずつ拭いていた。はきならしたローファーも新しい皮の匂いがするパンプスもくたびれたスニーカーも。
「若くて何もわからない頃、おばあちゃんにうんといじめられたから」
 そんなことを何度か聞いていたし、もう何十年も離れていたひととまた近しく暮らすというのはどういう気持ちになるのか、わたしには分からないけれど、365日一緒に暮らしていたひとと離れる一抹の寂しさなのか、およそ30足を拭き上げた頃には鼻水が垂れていた。


「それでバッハは上に居るの?」
「そう、お医者さんに言われたように話してから一週間くらい経つの」
 生後すぐから湿疹に悩まされている娘だが、初めは乳児湿疹だから気にするなとか、月齢も低いので詳しい検査が出来ないとかで、5件くらい医者を変えて話を聞いたり薬を多少変えたりしていた。夜中痒がって度々起きるときは患部を冷やしたり、泣くのをあやしたりで寝不足になりながら一喜一憂していた。1歳を過ぎてやっといくつかの検査をした結果が犬アレルギーであったから、夫婦で落ち込んだ。
「マンマンマン」と言いながら義理の母の手から器用に滑りおりた小さな頭がわたしの膝を割って入る。
「じゃあおかあさんバッハの散歩に行くわ」
「お願いします」
 義理の母はバッハを抱くとき用のスウェットに着替えて黒い彼を脇に抱えてうちを出た。あんなに自由に歩き回っていたリビングの床を、バッハは踏めなくなった。
 いつの間にか腕のなかでくうくう眠ったおチビさんに、ゆだねられた重みで膝が痛み出し、彼女をそうっとソファーの上へ移動する。
「疲れたなぁ」
 我慢していたトイレに立つのも億劫になる。それでも今日はいつもの木曜日よりずっと軽い気分だ。助っ人が来てくれた安心感は大きい。日ごろ一人育児でフル活動する体はたいてい木曜になると軽いストライキを起こす。
 ”ダンナ、あっしはもう立っちゃおれませんぜ”と膝が言えば、
 ”やーねポンコツ!あたしなんかまぁだ頻繁に吸われてんのよ!疲れるんだから”と乳がいきり立つ。
「君たち、すまないね」とか言いながらマッサージクリームをすり込んでやると、
 ”よせよせ、疲れちまう”と腕が怒る。
孤軍奮闘。満身創痍。
「なにもしたくない」
 木曜日のセリフはこれだ。
「家事とかしなくていいから」と、夫は言うのだが、家事は一日くらいサボれても育児はサボれない。
「ただいまぁ」と息を切らして義理の母が帰る。黒い彼は両腕にしっかり抱かれて満足そうな目をしている。ああ、良かった。満足にバッハの相手をしてやれないこともわたしの気持ちのどこかで申し訳なくて、バッハに対する罪悪感はしんしん積もる雪のように重みを増していたのだ。
 半年前に来たときの義理の母には、またどこか色んなものに諦めのつかぬようすが窺えて、孫の守はそこそこに仕事や遊びやと用事をつくりまくっておられたけれど、今回はひどく穏やかな口調で「なんにも予定していないから、ほんとに日頃の疲れをしっかりとってね」と言うのだ。とても嬉しい。一番欲して睡眠を心ゆくまでむさぼろうと決めた。およそ二時間おきに乳房にまとわりついてくるおチビさんから、まとまった時間離れていられるチャンス。
「じゃあ眠らせてもらいます、この子起きたらお願いします」
 寝室のベッドにもぐり込むと口もとがにんまり緩んだ。おチビさんを寝付かせて、こちらもやっと夢現というまどろみを何度も何度もうち破かれる。しばらくはそんな思いをしなくてもいい。自分の為に眠れる。ああシアワセ。

(つづく)

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