白い夜の月 4

 ふらりと入った商業施設に狙っていたショップが入っていた。都内にいた頃、アパレルならこのブランドでやりたいと思っていたんです。何気なく言った言葉を店長は聞き逃さず、その日その場で部長に引き合わされたのだ。カフェで一時間ほど話しをしたら、社宅もあるから来週から来て欲しいとあいなり、後から分かったが当時の店長は安定期だったのだ。 つぎの店長候補を探していた。

 蓋を開けたらさあ大変。ブランド側は撤退する気満々でいた。初めて立ってみればそこは2階エスカレーター裏、照明は暗く、ふきだめのような場所だった。売れないブランドは導線も少ない。少しびっくりしたのは殆ど引き継ぎがなく、すべてを丸投げされたことだ。電卓を片手にストックのタグをチェックした。七百万の数字が浮かぶ。店頭に並ぶ在庫と合わせたら、んー。これをひと月で売り切らないと拙いという話だ。んー。
 部長がフロアを巡回していつも一緒にいる女性と雑談を始めた。あの子も直ぐに辞めちゃうでしょう、のようなことをいう女性を眼の端に捉えた。たじまようこさんに似ている。

 わたしは強行手段をとることにした。前の責任者が残した余剰在庫を先ずは完売することを目標に原価40%の少し上乗せでマイナスを出さないように、すべて55%オフにした。委託ではなく買取なので、次の展示会からは慎重に仕入れなくては、それから、この街のここへ来る女の子たちのことを少しずつ知ろうと思った。

 セール前のプロパー商品を原価率近くまで落とすとは何事かと、たじまは怒った。しかし、まきこは大らかに笑って、やるなら新作とのセット売りを意識しなさい、と言い。狭いスペースの導線を少しでも拡げるようにと、いらない什器を取り払ってくれ、商品に当たる照明の数を増やしてくれた。

 わたしは必死だった。少ない給料からバックナンバーのファッション誌を買い集め、店頭にある55%オフにした商品の掲載部分を切り抜いて手書きのポップを作りアピールした。お客様ひとりひとりに、なるたけ誠実に商品の説明をしながら、いや説明よりも彼女たちの雰囲気によく合うものを一緒に探すという対応を続けた。彼女たちを普段着よりちょっぴり素敵に魅せてくれるものはどれか。その熱意が伝わっていったのか、余剰在庫はみるみるうちに売れ出して、新作もそれを追いかけるように売れていった。ひと月と少しかかったが七百万の在庫をソールドアウトした。

 すると、本社から担当者が飛んで来た。サーフィンが趣味だという背の高い男は俗に言うイケメンらしかったが、わたしは疎かったので(というより眼の前にある現実に追われていた)斜向かいの熟女たちが彼を誉めそやす意味が分からなかった。
 担当者はまきことミーティングをしてのち、わたしと年間三千万を目標に頑張りましょうか、と言ってきた。まきこは喜んで、売り場を広くしてやると言った。それでわたしは翌月から一階の広々と丸いフロアのエスカレーター側の半月に立つことになった。

 わたしの受け持つブランドの服は都心部では飛ぶように売れ、まさに旬を謳歌していた。遊び心満載、華やかでフェミニン。そのようなテイストのものを地方で売りまくるには、どうすればいい?一度目の訪問のあと、担当は毎日電話をかけてくるようになった。担当とは息が合い、うまくのせ合っていれたから、売り上げも好調をキープした。
 あるとき、たじまが通りすがり、長電話するな!と、ボディーを軽く蹴った。イラ。
 電話を終えて傾いたボディーを直し、外側から全体をチェックするのにぐるぐる歩いたピンヒールのかかとがコツコツ響く。たじまはすかさず言った。

 うるさい靴を履くな!

 売るものを履くのは当然だと反撃し、フィッティングを内側から勢いよく閉めた。
 
 ドアはそっと閉める!

 しら~っと無言でフィッティングのミラーを拭いていた。

 翌日からたじまはわたしに笑顔を向けるようになった。気に入った。とも言ってきた。まきこがなにか言ったのかしら?と思ってみたが、たじまは腰巾着のようでいてカラッとした女性だ。たじまがジトジトした女なら、まきこと連れだってはいないだろう。わたしはたじまの豹変を素直に受け入れた。そのうち皆でくじらと馬刺しを食べようと誘われた。親戚から沢山送ってくるのだと。

 そういえば昨日、スケッチおじさん来てましたよ。

 細い脚に小花柄のチノパンをはいたハラちゃんがポスを片手に寄って来た。

 フィッティングに入ってたから、いないと思ったんですかね、一周して帰りました。

 

つづく

白い夜の月 3

 朝になればそこは小さな独房のなかみたいだから、一刻もはやく外に出ないといけない。はやく出ないとわたしの光はコンクリートの隙間から射すだけのものになってしまう、拙い。

 なに書いてんですか?

 朝の掃除を済ませたあとメモ紙に走らせた思いつきのことを、ハラちゃんに見られてしまった。

 疲れてます?グミの話とか、ボディーが夜な夜な社宅を襲う夢とか。

 2階フロアから部長の声がする、朝は声が響く。
 
 あと5分で朝礼が始まる。

 今日仕事終わったら、あご出汁ラーメン食べません?

 いいね、行く♪

 1階と3階のショップ店長が皆、コントロール表とメモ帳を持って2階に集まった。円になり、まきこ部長が挨拶をし、各店舗月初の目標に対しての達成率を報告する。新作の紹介と売れ筋。たとえば持ち場で扱っていない品物を求められたとき、他のショップへお客様をお連れする為の自前確認。その他確認作業を行う。まきこがしっかり舵を取るので皆んな結構楽しくやっていて、まきこは売上さえ作ればやり方は各々自由でいいと言うタイプの上司だったから、給料は安くても辞めたいという者は少なかった。


 その日は午前中に、ハラちゃんの受け持つブランドの本社から、営業の女性が視察にみえた。細く切れ上がった目、高い鼻の中央にある黒子が印象的で、160センチのハラちゃんより頭いっこぶん背が高い。

 どうも、こんにちは。

 真裏のわたしにも気さくに声をかけてくれた。会うのは2度目だ。わたしはさりげなくハラちゃんの扱うTシャツの型番の豊富さを誉め、このあたりのラインナップを増やして欲しいとねだってみた。ハラちゃんとこのお客様受けがよいもの且つ、わたしのお客様にもセット売りしやすいものを。

 打ち合わせに出ますので、戻るまでお願いします。

 ハラちゃんに頼まれ、しばらく円のなかにひとり立つ。ハラちゃんとわたしはひとつの円のなかに居る。中央の電話とポスと事務用品を共有し、いつも半月のなかでそれぞれのブランドが動いている。ハラちゃんの方が賑わい、わたしの方が静かなとき。わたしの方が熱気に包まれ、ハラちゃんの方がひんやりするとき。どちらもホットなとき。どちらも沈むとき。ハラちゃんもわたしも不思識と嫉妬しあうことがなかった。ロにしない連帯感のようなものがふたりを繋いでいるのかもしれなかった。

 ハラちゃんが戻り、営業さんが帰社し、通常業務を終えたあと、ハラちゃんと向かい合って日報を書いた。ちぎったタグから数字を拾い電卓をはたく。月末の達成感と月初の焦燥感が同時にくる。ハラちゃんがこちらのコントロール表をのぞいた。

 144%ですか?うちは130%。

 ハラちゃんとわたしは若手のツーホープらしく、撤退するというメーカー側に、この子とやってみる、と、互いの営業担当に気に入っていただいたので、頑張るしかないね、というところにいた。

 商業施設内の入れ替わりはどこも激しく定着させる為にはそれなりの努力がいるし、ブランドにも火がつく周期がある。短大を卒業するとき某化粧品メーカーの内定を取っていた、しかしそれは関西地区の採用であり、おなじメーカーの関東地区とは地区別採用だった。両方受けて関東地区の最終面接で落とされた。理由は社宅がなく激務で実家通いのみの採用にしたいということだった。最初から言って欲しかった。諦めきれず、中途採用を待つつもりで一度は上京したが現実は厳しく、おっしゃる通りの生活具合が続いた。同郷の友人がやはり上京していたから一度会って話をしたとき、彼は和食の有名料理人に弟子入りしたがやはり2年で挫折して福岡のカレー専門店で働き出した。思うように進まない現実、アパレルをやるならせめて好きなブランドで働きたい、おなじ消耗するなら。子供の頃から馴染みのある小都会くらいに住んでみようか。ふと思い立って来たこの地に思わぬ縁が転がっていた。


つづく

白い夜の月 2

 在庫確認したいので、少し観ててもらえますか?
 人出がなく、いや違う、部長はあえて雇わない、各ショップ店長をひとり置くというスタンスでいる。臨時スタッフを雇うことはあるが、基本すべての管理運営は各ショップの店長に委ねている。たなかまきこさんにソックリの彼女はこの小さな街で、自分の受け持
つブランドの売り上げ、全国2位を誇っていた。

 そんなに頑張らなくたって、よく売れているじゃない。斜向かいの熱女はまたわたしの頭を撫でに来た。

 好きなんです、在庫整理。正確に言えば、タグに印字された数字とアルファベットを暗記するのが好きみたい。

 ゆるくなっていたボディーの腕をそっと折って接続部の金具を指先でひねる彼女の動きはすべてが艶めかしく、これは水曜日の女が逆立ちしても敵わないだろう。

 薄暗く、冷えたストックルームに積んだななつのパッキンをひとつずつ開ける。初秋もののツインニットが色とりどり。糸の色味は少し落ち着いてきた。この夏はラメ混のものだらけだった。みっつめを開ける頃はスカート、形はマーメイド膝丈が人気。生地はポリ混
の綿が履きやすい、色は動向を観て追加発注すればいい。初秋はダークブラウンとピーコックグリーンが売れると観た。いつつめになると小物がわさわさ、小物はディスプレイに
かかせないし、やみくもに選んでは良くない、ツマみたいなものだ。
 ななつの白いパッキンをつぶして、フロアへ戻り、部長に内線でボディーを変えてくれと頼む。何故かと聞かれ、腕がなく胸が平らなボディーにして欲しい、その方が今季のデザインが映えると言ったら直ちに新顔のボディーが5体、フロアに降りてきた。腕があっ
て胸の盛り上がったボディーはよそのフロアへ移り、すました姿でスーツを着た。

***

 夜、社宅のマンションに帰ると心細い。それでハラちゃんに電話する。ハラちゃんは真裏のショップで大量のTシャツとチノパンを売る物凄く感じの良い子だ。

 ハラちゃん、ハラちゃん、近頃社宅にいるとグミに埋もれてしまって困るの。

 冗談はいいですから、やっぱり1時間かけて通勤したらどうですか?新築の、あんな素敵な家じゃないですか。
 
 お家は素敵ね。住みたくないのよ、母さんと、今はまだ。

 わたしには分かりませんて、母さんいないもの。

 そう、そうだったね。ごめん。大丈夫、朝が来たら職場に行けるもの、あそこに立ってるのが一番好き。ハラちゃんもいて、お客さんもくるし、まきこは可愛がってくれる、熟女も撫でてくれる。

 部長のお気に入りですからね、顧客もついたし、へんなのも来るけど。あのスケッチおじさんとか。

 ハラちゃん、仕事たのしい?

 ん、分かんないですね。出来れば隣のビーズ屋で働きたい。

 隣のビーズショップの店長さんには米軍の彼がいる。 彼はわたしの前を通るとき必ず声をかけてニカッと笑う。
 
 SMILE!
 
 わたしに声をかけるのはこれだけで、接客中は決して言わない。閑散としたフロアで黙々作業する姿を見るときにだけSMILEと声がかかる。そう言われると逆に照れくさく笑えないが、ビーズ屋の店長さんには良い彼氏がいるのだな、と、ひとりでに微笑んだ。

 給料は安い。安い上に自社ブランドの旬のものを着て、着た服をつぎつぎ売って、それが繰り返される。消費スパイラルにウンザリしたある夜、ぱんぱんに腫れた脚を引きずって、おにぎり屋さんに辿り着く。

 おかかと鮭、あとベーコンのやつ下さい。

 暖簾の向こうにカウンター席が見えたが、持ち帰りにして社宅裏の寂れた公園まで歩いた。薄暗くなると若い女と米軍のカップルをよく見る公園だが、今日は誰もいなかった。そのかわりさっきから足もとに桃色の猫が擦り寄ってくる。公園のベンチに腰掛けて膝の上におにぎりの包みを開いた。塩むすびに厚切りベーコンが巻いてあるのをぱくん。あたたかい米粒が寄り添って湯気をたてるとこへ、またぱくん、ぱくん。ぶるぶる、ぶるるん。

 ジャケットのポッケで携帯電話が鳴った。右手の指についた米粒を祇めてから、それを取り出して開く。

 そんなところで握り飯なんか食ってないで、はやく帰宅しろ!そう聞えたが空耳か、ぴちぴちぴちぴち、ただぴちぴち。

 携帯電話をポケットに戻し、桃色の猫に鮭の入ったおにぎりをあげる。猫は細く笑ってがつがつやり始めた。うみゃあ、うみゃあ。うみゃあ、うみゃあ。

 社宅に帰ると、グミの洪水で鷲いた。まったくどこからこんなに湧いてくるのか。

 のいて!

 靴を脱いだら靴底に整列し出すグミら。朝になれば消えているから、もうなれた。なれたは嘘だ、なれたらいけない。

 カラフルなグミに占拠されたワンケーの部屋、グミの山に身を投げた。赤青黄色燈緑、薄柴・・・・・・透明のグミをつまんで目の前にかざす。向こう側に蓮華畠が広がってたらいいな、牛蛙の鳴くあの沼池でもいい。

 おばあちゃんに逢いたい。

 そう呟いたらグミは一斉にぴちぴち鳴り出してうるさくなった。無臭のカラフルなグミに埋もれて眠る。放っておくと音はいつも小さくなって消えた。

 

 

つづく

白い夜の月 1

カラフルなグミに埋もれていたの。

グミを食べたと?

いいえ。だってあんな音のするものは食べられないわ。

音って?

ぴちぴち。赤いグミも青いグミもぴちぴちぴちぴち。

音は止まんの?

そうね、時々しんとするのだけど、やっぱりあれだけの数だから。

気が狂いそうやね、耳も目もへンになりそうやね。

おばあちゃんはもっとすごいの、見たでしょう?

見たらいけんもの見たから、バチがあたって片方見えんの。

✳︎✳︎✳︎

 新宿東口。ビル風に背を押されていた。
 

 ストックルームで高価なスニーカーを見せびらかしながら、あなたたちも年間で一番売り上げたら欲しいものが買えるわ、と、店長が言った。

 百万円のスニーカー?

嘘でしょ、だってアヒル描いてあるよ。それは某人気スポーツメーカーのものだった。いらんわ、わたし強羅温泉行く。美人が毒づくと、いらないねと笑ったサブ店長は、あたしホストで飲む。と言った。それらを聞きながら、わたしは生活のことばかり考えていたのが懐かしい。

新宿の店はドロップスみたいだった。

デパ地下にいたの?

ちがうちがう、テイストはJJ,cancan,エビちゃん好き?

鮮魚コーナー?

やだもう、ふざけないで。前ここに居た店長に、このブランドはチェリーの香りがするって言ったら、妙な顔になって彼女、革のスカートを手に、これが牛クサイって言うのなら分かるけどって言うのね。冬場の倉庫はクサイわね、羊も駱駝も入り乱れて。

じゃあその革のスカートを買うわん、あなたの社割でお願い。

ローズピンクとパステルピンクがございます。

クロにしてよん。
斜向かいの熟女はよくしなる声で、よくわたしを撫で撫でしにくる。

若い子は牛も駱駝もピンクでいいの、若いうちしか着れない服を着ていたいのよ。

もう若くないから無理よん、クロ、お願いね。熟女が長い指を翻して持ち場に戻ったのは、水曜日の女がつっと背筋を伸ばして挑むようにこちらを見たから。

 斜向かいの店にやってきたツイードの女性は、水曜日、必ず服を買いにくる。ほんとうは服なんか欲しくない、と思われる。斜向かいの熟女に無言の闘いを挑みに来るだけだ。
 硝子張りの向こうに水曜日の女が見える。手の甲でひらひらと、斜向かいの店に並ぶシックなワンピースを選んでいるふりをしている。いつも目深に被られた帽子にサングラスだから顔が見えない。熟女の方はなにも隠さない。いつも堂々としなる全身から、高濃度のフェロモンが放出されている。甘い線香の匂いがする。しばらく観ていたら水曜日の女は真っ白いジャケットをカウンターへ運んだ。お会計のときだけ勝ち誇ったように胸を張る、カードを差し出す、夫名義らしい。品物を受け取ると少し肩を落とし、フロアをゆるく流れるジャズに乗って立ち去った。

 ゆるいジャズが軽妙なボサノバに切り替わる頃、学生服のマナちゃんがわたしのところへ飛び込んできた。学校が嫌い、父親がいない、母親は借金まみれ。そう言うマナちゃんだが、明るく丸い眼で真っ直ぐわたしに向かってくる。週に2度はお喋りにくる。

今日はなんにする?

じゃあココアを、アイスにしといて。

ジャ!
 わたしから小銭を受け取り、隣接のコーヒーショップへ向かうマナちゃんは背が高い。マナちゃんが欲しがるフリンジのスカートを、マナちゃんのサイズと彼女の好きな色で1着とってある。高校生のお小遣いじゃプロパー買いは負担だろう。次の展示会前、セールにかける。新宿じゃなくて良かった。ここは小さな街だけど、ひとりひとりに出来るだけ応えてあげられる。

マナちゃんがココアを持って戻ってきた。

マナちゃん受験生だっけ?どこいくの?

早稲田!ワセダー本。

何したいの?

演劇!エンゲキ一本。

 マナちゃんの夢とわたしの夢は違っていたけれど、こう言った。

 ワセダ!絶対に合格してね。マナちゃんが合格して独り暮らしに慣れた頃に上京するよわたし、もう一度。

 マナちゃんはその抱えた背景をすっぽり隠す満月みたいな笑顔でまたねと背を向ける。紺色のプリーツの裾が揺れた。

つづく

オッパイ3

 次の日。産婦人科の待合室で育児の記録ノートと睨めっこしながら、婦長さんが連れていった我が子を待った。三時間おきに母乳にトライしているが、自信がないので母乳のあとミルクを追加する。飲む量は30ccから80ccと、そのときどきで違う。
「お子さんは順調ですよ、ママは元気ですか」
「ちょっとまだ傷が痛いくらいです、あと母乳が足りているのか気になります」
 婦長さんは赤ちゃんを夫に抱かせて、わたしを別室へ連れてゆき、乳房を出してと言った。
「いで、いだだ、痛いですけど」
「初めは痛いくらいマッサージするといいから」
 タオルを強く絞るがごとく婦長さんは乳房を絞る。すると乳頭から透きとおる白い液体がシャワーのように飛び出した。
「優秀なオッパイよ」
「はあ」
「オッパイは赤ちゃんとママの共同作業だから頑張ってね」
「はいお」
 婦長さんが足早に退室したあと着くずれを整えて部屋を出ると、夫がリンリンを抱いて待っていた。
「抱っこ代わろうか」
「代わりたいんでしょ」
「うん」
 不思議なことのひとつに、我が子を自分以外のひとに長時間抱いてもらうことに、初めはすごく抵抗があった。『血』であるのかなんなのか、義父に抱かれるのと自分の父親に抱かれるのとでは全く違う気持ちになっていたし、自分のなかに動物の本能を強く感じていた。
「どこへ行く?」
「歌でも歌おうか」
 母にリンリンをお願いして久し振りに夫とふたりで出掛けた。
「一緒に住む前にカラオケで語ったな」
「そうだそうだ」
 そうだった。夫はお酒を飲まないから、あのときはわたしだけがしこたま飲んだ。ハイボールを矢継ぎ早に飲んだ記憶がある。
「あのとき話をして、この娘にしようと思ったから」
「そうなの?」
 そうか。わたしはそのとき自分が彼になにを喋ったか皆目覚えていない。だけどその方がいいような気がしたので、ありがとう、とだけ言った。しばらく交互に歌っていたが、小一時間もするとマイクを持つ手が重たく感じたし、二時間経つ頃には乳房がつんと張り出した。
「帰ろうか」
 近所のケーキ屋さんで母の好きなバニラのアイスクリームを買って帰宅すると、我が子を抱いた母が玄関先で迎えてくれた。
「ほうらママ帰って来たよ」
 我が子を受け取ると乳房がじんと熱くなる。
「オッパイあげようね」
 にひゃあと笑う歯茎だけの笑顔がたまらなく愛らしい。
「今ねぇミルクあげてたんだけど愚図って20しか飲まないのよ」
 乳房を差し出すと彼女は目をつむりパクンと乳頭をくわえ、いつもより少しだけ強い力で吸啜し始めた。
「少しずつ吸う意志が出てきた気がする」
「オッパイだけで育つといいわね」
「え、わたしは混合がいいな」
「完母が最高よ」
「ねぇ、それより見て、目もとが笑ってる」
「ほんとう、目に表情が出てきたね。これからいっぱい話しかけてやんなさい」
「義母さんはそんなに話しかけたりしてなかったよ」
「お仕事で余裕がなかったんでしょ」
 母はちょっと怒っていた。この子が産まれて直ぐ手伝いに来るべきだったと言った。母が義母からもらったメールには産後ひと月は私に任せて下さいとあったらしいが、実際には毎晩遅く、母が思っていたように娘の産後のケアをしてもらえなかった点が不服であるそうだ。
 母は赤ちゃんの目を見て、「うおん、うおん」とか、「ああうう」とか言い出した。母の独り相撲のように見えたが、しばらくするとリンリンの方も「ああ、うー」と応え始めている。
「オムツもお風呂も、なにをするときも、話しかけてやんなさい」
「わかった」

* * *

 平日の昼間で、母を空港まで見送ることが出来なかった。赤ちゃんを抱いて玄関先で見送ったとき、母はやっぱりさみしいと泣いていた。
 ひと気のなくなったリビングの窓辺に寄って、
「改めましてどうぞよろしく貴方のママです」と、わたしは我が子の目を見て挨拶をした。すると、わたしの胸もとをさぐるように顔をこすりつけてくる。
「あらあら、お腹が空いたかな?オッパイあげようねー」
オッパイは基本3時間毎と決めて、欲しがる時にはなるべく銜えさせることにした。青魚が好きだが白身魚を摂り、豆腐の味噌汁か納豆、チーズに卵、緑黄色野菜、白米より麺が食べたいけれど白米を食べるようにした。口にするものを母乳の為に切り替え、体が疲れたら我が子に添って短くとも深い眠りにつけるよう努力した。頻回に沐浴やオムツを替えることでハンドクリームの消費量が倍になる。乳幼児のことを考えて、成分の強いものや香料のあるものは避け、ときどき夫が見てくれるあいだは好きなものを使ってリフレッシュするようにした。
「しばらく自分のことは後回しになるわよ」「いよいよ人生が変わるね」と、子育てをした色んなタイプの女性達から聞いていたが、百聞は一見にしかずであった。それでも、この子は宝物だと、心底思えることは今までに味わったことのない感情のひとつだった。
 オッパイをどれだけ飲んだか分からないが、赤ちゃんは耳のよこに拳をあてて眠ってしまった。リビングのソファーに置いたクーファンにそっと寝かしつけて、わたしは久しぶりにキッチンへ立つ。ひとまず家事は手抜きでいいから、赤ちゃんにくっついていなさいね、と誰もが言った。そうだからと言って夫の健康を疎かにすることもできないので、かなりつらいとき以外はなるたけ料理をしようと決めていた。
「鶏団子があったっけ」
 形成して冷凍していた鶏団子を取り出して、野菜庫から白菜を取ろうとして買い忘れているのに気づく。サッと我が子に視線が走る。ぐっすり寝ている、今のうちならダッシュで買い足しにいけるかもしれないと思った。
「でも・・・・・・」
 クーファンのそばへ行って我が子を覗きこんだ。すっすっ、と、小さな小さな寝息を立てている。
「とても置いては行けないわ」
 仕方なく、母が買い足してくれていたキャベツと、かろうじてひとかけ残っていた生姜を取り出した。
 出来上がったスープは何故か薬品のニオイがした。鶏肉の団子だけを取り出して噛むととても美味しいので、これはキャベツの仕業だなとキャベツを噛んでみたらひどくまずい。鶏ガラの出汁も生姜のうま味もキャベツが全てを台無しにした。
「ごめん、リベンジするし今日のは飲まなくていいよ」
 一応食卓に出してみたスープに箸の進まない夫が、
「食材、俺が仕事帰りに買って帰るよ」
「うん、重いものは頼もうかな」
 夫に生鮮食品を見つくろってきてもらうことは躊躇われた。自分で見たい。
「俺、しばらくジャンクなものでも構わないよ」
「あなたが構わなくても、オッパイに悪影響なんだってば」
 オッパイは白い血液。ママが口にしたもので組成は変化する。三時間毎が目安というのもいつも新鮮なオッパイを提供したいからで、吸わせない時間が長すぎるとママの脳がもうオッパイ作らなくていいよと解釈するので、出が悪くても頻回に吸わせた方が良いらしい。食事もさることながら、授乳のときにテレビや携帯画面を見ていては美味しいオッパイを提供出来ないという。ママの気持ちは赤ちゃんに伝わるようで、授乳のときこそ最大限のリラックスが必要だという。


 授乳のとき、わたしは先ず大きく深呼吸することにした。それから、どんなに眠くつらくとも、しんどいその瞬間だけは自分に嘘をついてでも「可愛い可愛いわたしの赤ちゃん」と声に出して言う。もちろん本音で話しかけることが常だが、真夜中と明け方の授乳はときにひどくつらいことがある。あらゆる努力をしても、一滴のオッパイも出ないことがあって情けなくて泣きたくなる。そんな或る夜、しょげていたわたしから赤ちゃんを取り上げて、夫は言った。
「少しぐっと眠りなさい」
 オッパイを銜えて乳頭をブンブンふりまわしながら、やんやんわめいていた我が子の姿をまぶたに閉じ込めてわたしは眠り落ちた。
 そうして約一時間後、階下で響くぎゃんという声で目が覚めた。
「どうしたの」
「駄目だ、ミルク全っ然飲まねえ」
 夫は哺乳瓶を片手に赤ちゃんをあやしながら参った目でわたしを見て、
「オッパイあげてくれ」と、彼女を手渡した。わたしはソファーに腰掛けて膝の上にクッションを置き、赤ちゃんを横にして乳房を差し出す。時刻は午前4時。
「ありがとうね、もう寝て」
 おやすみ、と、欠伸を噛み殺して夫は寝室へ上がった。


 土曜の午前中、ぱぱっと身支度をして、そっと家を出ようとした瞬間に赤ちゃんが泣いていた。いくら愛しい我が子とはいえ、平日は夫の帰宅までずっと彼女とひっついていることで、ときどき独りになりたくてたまらなくなる。
「そんなに愚図らないで、ママ帰らなかったらどうするの」
 疲れ過ぎていたから思わず出てしまった言葉を夫が聞いていた。夫は赤ちゃんを抱き上げて「ゆっくりしておいで」と言ってくれた。家を出たわたしは100メートルくらいダッシュした。頬を切る冷たい風が気持ち良かった。横切るバスを目で追いながら、このまま空港にでも行こうかなと思い出す。
 家からすこし離れたスーパーにたどり着いた。ただ買い物をするだけのことがちょっと楽しい。ぺたんこのお腹では、店員さんはもう以前のようにかごを運んでくれたりはしないけれど、この店で働く人達はとても感じが良くて癒される。一周してレジに持って行ったかごの中には夫の好きなものが沢山入っていた。
 家に帰ると玄関先に夫と赤ちゃんと愛犬がいて、愛犬は外に飛び出して来た。クウンとひとこえ鳴いて、何故か心配気な目でわたしを見上げた。
「おかえり」と、赤ちゃんを抱いた夫も愛犬と同じような目をしていた。
 浮いた浮いたで暮らしたや。わたしは本来そういうタイプの方だと思う。旅役者だった祖父の血か、根なし草のような生活を好んでいた。
「ただいま」
 夫から受け取って抱いた赤ちゃんのやわらかい頭髪を嗅ぐと、ミルクの腐りかけたようなニオイがする。それが何故か愛おしい。この小さな命を愛おしいと思えば思うほど乳房が張ってじんとする。
「そんなにお腹が空いているのに、ミルクじゃ駄目なの?」
 んくっ。こくっ。
「産まれたての時はママのオッパイ、見向きもしなかったでしょう」
 へよっ。へよん。
「美味しい?あなたはこれからどんな味を好きになるかな」
 握りしめた拳をあてている姿を見て、
「可愛いね、ほんとうに可愛い」
 そう口にすると空いている片方の乳頭から透きとおる白い液体がぽたぽた流れたので慌てて差し替える。
「ママのオッパイもだんだん出が良くなってきたねー、あなたが上手に飲めるようになったからだねー、ありがとう」
 んくっ。んんん。けほっ、けほけほっ。と、むせたので、首を支えて縦に抱いて背中をとんとんしながら、ごめん、ごめんと謝る。
 姑がキツくストレスで母乳が出なかったという義母と、難産で母乳が出なかったという実母。ふたりとも遠く離れてしまった。
「ママ、頑張ってオッパイで育てるから、はやくママといっぱいお喋りしようね」
 妊娠中、安定期の頃までは異性を育ててみたいと思っていたが、後期つわりからずっと女の子を育てたいと強く思い出した。わたしのこころにある母に対する愛情とトラウマという両極の感情にもう蓋をしようと思っていたのに。やっぱり女の子を育てたいと思ったのは、これまで知り合った色んな親子を見て、女親と娘という結びつきの強さを感じ続けたからなのかもしれない。我が子にはわたしにどんな愛情と反発を抱くのか楽しみだ。
 赤ちゃんは健やかに五カ月を迎えた。ときどきわたしが気分転換に出掛けるときだけ夫とのミルク戦争は続いているようで、わたしが帰宅すると「40cc飲んだ、今日も闘ったなぁ」とか言いながら出迎えてくれる。そんなとき、わたしを見てにひゃあと笑う彼女の視線の先はオッパイだ。
「おいで、オッパイしようか」


 

 

 

オッパイ2

「あの時ね、ラジオ体操から帰って来たらアンタ、泡吹いて倒れたのよね」
「救急車のなかで意識がもどったでしょう」
「そうよ、どんなに心配したか」
「あれからしばらくお薬飲む生活があったね」
「小学生のあいだはずっとね、ほんとはもっとスポーツもさせたかったんだけど」
「白い粉の、朝晩毎日飲んだね」
 わたしの乳頭から小さな唇がはずれた。
「ママ、オッパイ頑張るからね」
 まどろむ我が子に頬ずりをしてクーファンに戻し、わたしはリビングのドーナツクッションに座った。
「食べられるときに何か食べないと、赤ちゃんの為に」
「わたし、疲れてあんまり食欲ないな」
「食べられそうなものは?作ってあげるから」
「そうだなぁ、パンならはいるかも」
「厚焼き卵のサンドイッチ作ってあげる」
 そういえば、うちのフィリングはゆで卵じゃなくてバターたっぷり甘めの厚焼き卵だった。キッチンから漂う溶けたバターの香りに腹の虫が鳴る。
「ほら、お腹空いてるんじゃない」
「カラダはそうかもしれないけど、気持ち的には空いてない」
「変な子だね」
 キッチンの換気扇の下で、母がおもむろに煙草を吸い始めた。それを見てわたしはむしょうに苛立つ。いくら換気扇の下だからって新生児の居る空間でなんてことを!
 出かかった言葉を喉の奥で止めた。
「煙草、止めないんだ」
 抵抗を込めた小さな声は卵の焼ける音にかき消される。母は煙草を持たない方の手にターナーを持ち、器用に卵を返す。
「アンタ、煙草は吸わないの?」
「以前、年に数箱だけ、とてつもなく哀しいときだけ」
「変な子」
「変なのは母さんでしょう」
「わたしが?なんでよ」
「ひとに煙草は吸うな吸うなと言いながら、ずっと吸い続けているのは誰よ」
 母は沈黙し、パンの耳を切り落とす。
「出来たよ」
 差し出された厚焼き卵のサンドイッチを頬張るのと同時に我が子が泣いた。
「いいから、アンタは食べていなさい」
 ほうら、よちよちいい子だね。
「なにか、遊んであげようか」
 母は赤ちゃんをリビングのソファーに横にすると、彼女の両脚のすね辺りにクッションをひとつ置いた。わたしは甘い卵を噛みながら我が子をじっと見つめる。
「ほら見て、この子、なんとかしようとしてる」
「見てるよ」
 小さき人は屈伸した片方の脚に力を溜めてクッションを払い除けようとしている。クッションは彼女の脚先で少しずつ位置を変え、ついに両脚で床の上に蹴り落された。
「見て、この嬉しそうな顔」
「やってやったーって表情してるね」
 母はそれから何度も我が子にクッション蹴り遊びをさせ、興奮した彼女はこの日、朝8時まで寝つかなかった。


 睡眠が続けてとれないことに臨月の頃から慣れていたはずなのに、体力気力ともにすれすれのところにいた。午前4時、階下の泣き声でパッと目が覚める。降りて行くと母が我が子を抱いてあやしている。
「しんどい」
「そうだね、皆こうやって育ててきたのよ、ほら見て、すごく嬉しそうな表情でしょう」「そうなの?」
「そうよぉ、この子のママは貴女よ」
 んぎゃあ、ぎゃんっ。この子は長泣きをするタイプではないようだが、お腹空いた!と、オムツ替えて!の時はしっかり自己主張する。
「ミルクは?」
「50くらい飲ませたけど、寝オッパイが欲しいのよ」
「寝オッパイ?」
「安心したいのよ」
 半ドーナツ型授乳クッションの上に我が子を乗せようとしたら「添い乳してごらんなさい」と言われ、わたしは我が子と添い寝する形をとって乳房を出した。体勢がつらいと思っていると「こうやって」と向きを直されたりしながら何とか授乳をすることが出来た。
「楽でしょう。そのまま一緒にアンタも寝なさい」
「潰さないかな」
「大丈夫よ、お腹のなかで何か月も守ってきたでしょう」
 へよ、んっく、へよ。
 目を閉じて、小さなカエルのような声を出し、必死にオッパイを吸う姿に思わず笑みが漏れた。
「母乳育児って、もしかして結構な肉体労働じゃない」
「そうね」
「出てくる前はつわりだなんだでしんどかったけど、出てきてからの方が大変なんじゃ?」
「だけど可愛いでしょう」
 確かに。産まれたての赤ちゃんを我が家に連れて来た日から四週間経つが、愛おしさはゆっくり増していく。
「母乳は出来る限り長くあげなさい、それと焦ったら出るものも出なくなるから、いつもリラックスしていなさい」
 リラックス。子供を産んだ女性が一番するべきことがこれだと書いていたライターさんがいた。米国の育児書からの引用であるらしいが、わたしにもこれが一番腑に落ちる言葉だった。母がくれた育児書にはまだ手をつけていない。世の中に出回っている多くの育児書を自ら買うこともおそらくないと思う。興味本位で開くことはあるかもしれないが流動的で多すぎる情報に振り回されたくない。
「明日、検診のあとこの子頼むね」
 正直、わたしは怒涛の流れに少し疲れていた。気儘な独り暮らしから同居生活に入り結婚、赤ん坊犬をひとまず成犬に育てながらの妊婦ライフのち、別居と育児の始まり、短期間とはいえ母と暮らすのも十数年ぶりである。
「あんまり遅くならないようにしなさいよ」
「わかってる」

 

 

つづく

 

オッパイ

 猛暑日の早朝、無事に彼女を出産した。出産ラッシュにあたってしまい、八月の出産予定者は三泊四日で退院しなければならなかった。結構な大仕事のあとだからもうすこし休息出来るかと思いきや、出産と同時に渡された過密スケジュールをただただこなす、入院というより合宿といった雰囲気の数日間を過ごしていた。陣痛体験や諸々は割愛することにして、過密スケジュールの大半を占めているのは授乳の時間である。三時間毎にガラス張りの新生児室でオムツを替えてから、隣の授乳室で赤ちゃんの体重を計ったあと授乳をしてまた体重を計る。やっと身体のなかから出てきた首のすわらない小さな命を抱いて、肌色の乳房を出すという不慣れな作業に平静を装いながら、わたしは内心不思議でたまらなかった。授乳室には他にも産まれたての赤ちゃんを抱く母になった女性の姿があり、同じように不慣れな手つきで我が子向かって乳房を捧げている。その姿がとても初々しく映る。
「どう?吸いつく?」
「いいえ、まず起きません」
 授乳の時は無理やりでも起こしていいからと、助産師さんは我が子の脇腹を強めにさする。
「あ、目が開いた」
 ぼんやりと宙をさまよう目はまだ乳房など認識できないでいるが、小さき人は繰り返し欠伸をするので、そこがチャーンスとばかりに乳首をふくませる。けれど頼りない口もとは直ぐに閉じて、また眠りこんでしまう。

「飲んでくれません・・・・・・し、わたしのオッパイも出ているのか、よくわかりません」陣痛時からお世話をして下さった助産師さんに聞くと、
「初めからびゅんびゅん出るひと、少ないから大丈夫」と慰めてくれる横から婦長さんの頭が覗き、わたしの乳房をマッサージしはじめた。
「いで、痛いです」
「双方がやる気にならないと出るものも出ないから」
「あら、右の方が出てきた、ほら優秀なオッパイよ」と豪快な笑顔で見守る婦長さんは、しばらく我が子のようすを見ながら、
「ふむ、赤ちゃんがまだやる気ないね」と言う。
 長い眠りから覚めた姫様に、突然過酷な肉体労働を要求するようなもんだなと思った。
「さっき、オムツを替えたとき、粘土質の緑色のうんちだったんですが大丈夫でしょうか」
「胎便は心配しなくていいから」と答えて婦長は別室へ去って行った。ふーん、あれは胎便と言うんだ。新たに知ることばかりである。授乳クッションの上に我が子の頭を右に寝かせ、乳頭から少しずつ漏れてくる黄色の液体を、なかなか開かない小さな口もとへ何度も運ぶ。
「この初乳って大事らしいぞぉ、ほら、頑張って起きろー」
「右側はこうして右腕に抱えるとやり易いから」と、助産師さんのアドバイスに従って我が子を抱いて右胸の授乳を練習する。
「これはラグビー抱き、左は普通に横抱きであげればいいから」
 ラグビー抱きでトライするも、我が子は吸いつく前に力尽き眠ってしまう。
 時間内にうまく授乳が出来ず、わたしはまだ疲れがたっぷり残るからだを引きずって個室へ戻った。


 結局、入院3日間中に我が子がオッパイにむしゃぶりつくことはなかった。義母はわたしの出産から2週間で遠くへ行ってしまうことは結婚前から決まっていたし、
「わたしは母乳がほとんど出なかったからオッパイのことは解らないのよね」と言ったきり、ほんとに全くノータッチで、あとはバタバタと仕事の引き継ぎに毎日明け暮れて帰宅も遅く。わたしはなんだか新しい未来をこの腕に抱きながら同時に取り残された気分でいた。義母と入れ替わりで実家の母が手伝いに来てくれるまで、オッパイに関してはどうしてよいか分からず、母乳育児を半ば諦めてせっせとミルクを作り、50cc作ったが20しか飲まない、とか、60ccを一気に飲めたとか、時間区切りの育児ノートに書きこんでいった。母になったわたしでさえまだ不思議な気持ちでお世話をする我が子を、夫はわたしよりも親になった実感が湧きにくいのか、愛犬に接するときとさして変わらぬようすで、それを感じる度にわたしはキレていた。
「ペットより我が子のほうが大事でしょう」
「バッハだって家族だろう」
「そうだけど犬は犬でしょう、どうして赤ちゃんのことを先に考えないの」
「考えてるよ、だいたいなんでそこまで怒るんだよ」
 と、こんな風に夫は言っていたが、ペットはある程度じぶんのペースでお世話できるが新生児のお世話は滅私だという事実を始めの頃は受けつけないでいたし、わたしが怒る理由も分からないでいた。昼も夜もなく自分がトイレに行くことすら忘れる生活のなかで、こんな日々が続いたらいつか本当に自分を失くしてしまうのじゃないかと、まだ産まれたての子を胸に抱いて幸福とばかりは言えないような複雑な気持ちになることもあって、またそう思ってしまうことに少しの罪悪を感じていた。

***
 昼間。彼女は寝室のロールカーテンの隙間から射すかすかな光をぼんやりと見ては眩しそうに目を閉じる。軽く握られた拳がひらいて招くように動く姿がとても神秘的に映り。赤ちゃんは皆、神様からおくられて来たのではないかと思わせた。
 わたしの母がわたしの娘を抱いている。その姿を見て、わたしはあんな風に母の胸に抱かれていたのだと何故か懐かしいような気持ちになる。母とわたしはウマが合う方ではない。母から早く離れたくて、完璧な自立ができないでいるくせに、二十代なんてまるで自分ひとりで生きているかのようになにかと闘っていた。母のことがいつも重たく、うっとおしく、まる二年間会わないことがあった。母はわたしに、わたしから逃げた、と言った。それは今でも時々聞く言葉だが、わたしはこの言葉を聞くと今もとてもつらい。
「とんぼの眼鏡は水色眼鏡♪」
 わたしの娘の髪をふうわり撫でながら、母は歌う。
「この子は歌が好きよ、ほら」
「そうなの?」
「歌ってあげなさい」
 童謡を口ずさみながら、
「あのさ、オッパイって大事?」
「そりゃあ母乳が一番いいに決まってるの」
 ふうん、と、うつむいたわたしに母は、
「ちょっとやってみなさい」と言うので、おもむろに乳房を片方取り出して我が子の口もとに運んだ。
「ああ、それじゃ吸いにくいから、こうするの」と、母は人差し指と中指で乳房をつまむやり方を教えてくれた。我が子は薄目を開いて乳頭に吸いつき、そこそこの力で吸引し始める。
「吸ってるみたいだけど、これ、出てるのかな?」
「出てなくても吸わせることでだんだん出るようになるから」
「このときばかりは哺乳瓶のようにオッパイも透明だといいよね」
 母はふふふと笑いながら、
「あんたのときは難産で母乳出なかったのよ」と言う。
「風ちゃんのときは?」
「あの子はオッパイもミルクも、まだ飲むのってくらいよーく飲んだ」
「風ちゃんはだから健やかに育ったのかな」
「そうかもね」
 だったら何としてもリンリンには母乳をたっぷりあげたいと思った。


 小学校低学年の夏休み。わたしは一度だけ意識不明になったことがある。それは自分でもうっすら覚えている。

 

 

<続>