オッパイ2

「あの時ね、ラジオ体操から帰って来たらアンタ、泡吹いて倒れたのよね」
「救急車のなかで意識がもどったでしょう」
「そうよ、どんなに心配したか」
「あれからしばらくお薬飲む生活があったね」
「小学生のあいだはずっとね、ほんとはもっとスポーツもさせたかったんだけど」
「白い粉の、朝晩毎日飲んだね」
 わたしの乳頭から小さな唇がはずれた。
「ママ、オッパイ頑張るからね」
 まどろむ我が子に頬ずりをしてクーファンに戻し、わたしはリビングのドーナツクッションに座った。
「食べられるときに何か食べないと、赤ちゃんの為に」
「わたし、疲れてあんまり食欲ないな」
「食べられそうなものは?作ってあげるから」
「そうだなぁ、パンならはいるかも」
「厚焼き卵のサンドイッチ作ってあげる」
 そういえば、うちのフィリングはゆで卵じゃなくてバターたっぷり甘めの厚焼き卵だった。キッチンから漂う溶けたバターの香りに腹の虫が鳴る。
「ほら、お腹空いてるんじゃない」
「カラダはそうかもしれないけど、気持ち的には空いてない」
「変な子だね」
 キッチンの換気扇の下で、母がおもむろに煙草を吸い始めた。それを見てわたしはむしょうに苛立つ。いくら換気扇の下だからって新生児の居る空間でなんてことを!
 出かかった言葉を喉の奥で止めた。
「煙草、止めないんだ」
 抵抗を込めた小さな声は卵の焼ける音にかき消される。母は煙草を持たない方の手にターナーを持ち、器用に卵を返す。
「アンタ、煙草は吸わないの?」
「以前、年に数箱だけ、とてつもなく哀しいときだけ」
「変な子」
「変なのは母さんでしょう」
「わたしが?なんでよ」
「ひとに煙草は吸うな吸うなと言いながら、ずっと吸い続けているのは誰よ」
 母は沈黙し、パンの耳を切り落とす。
「出来たよ」
 差し出された厚焼き卵のサンドイッチを頬張るのと同時に我が子が泣いた。
「いいから、アンタは食べていなさい」
 ほうら、よちよちいい子だね。
「なにか、遊んであげようか」
 母は赤ちゃんをリビングのソファーに横にすると、彼女の両脚のすね辺りにクッションをひとつ置いた。わたしは甘い卵を噛みながら我が子をじっと見つめる。
「ほら見て、この子、なんとかしようとしてる」
「見てるよ」
 小さき人は屈伸した片方の脚に力を溜めてクッションを払い除けようとしている。クッションは彼女の脚先で少しずつ位置を変え、ついに両脚で床の上に蹴り落された。
「見て、この嬉しそうな顔」
「やってやったーって表情してるね」
 母はそれから何度も我が子にクッション蹴り遊びをさせ、興奮した彼女はこの日、朝8時まで寝つかなかった。


 睡眠が続けてとれないことに臨月の頃から慣れていたはずなのに、体力気力ともにすれすれのところにいた。午前4時、階下の泣き声でパッと目が覚める。降りて行くと母が我が子を抱いてあやしている。
「しんどい」
「そうだね、皆こうやって育ててきたのよ、ほら見て、すごく嬉しそうな表情でしょう」「そうなの?」
「そうよぉ、この子のママは貴女よ」
 んぎゃあ、ぎゃんっ。この子は長泣きをするタイプではないようだが、お腹空いた!と、オムツ替えて!の時はしっかり自己主張する。
「ミルクは?」
「50くらい飲ませたけど、寝オッパイが欲しいのよ」
「寝オッパイ?」
「安心したいのよ」
 半ドーナツ型授乳クッションの上に我が子を乗せようとしたら「添い乳してごらんなさい」と言われ、わたしは我が子と添い寝する形をとって乳房を出した。体勢がつらいと思っていると「こうやって」と向きを直されたりしながら何とか授乳をすることが出来た。
「楽でしょう。そのまま一緒にアンタも寝なさい」
「潰さないかな」
「大丈夫よ、お腹のなかで何か月も守ってきたでしょう」
 へよ、んっく、へよ。
 目を閉じて、小さなカエルのような声を出し、必死にオッパイを吸う姿に思わず笑みが漏れた。
「母乳育児って、もしかして結構な肉体労働じゃない」
「そうね」
「出てくる前はつわりだなんだでしんどかったけど、出てきてからの方が大変なんじゃ?」
「だけど可愛いでしょう」
 確かに。産まれたての赤ちゃんを我が家に連れて来た日から四週間経つが、愛おしさはゆっくり増していく。
「母乳は出来る限り長くあげなさい、それと焦ったら出るものも出なくなるから、いつもリラックスしていなさい」
 リラックス。子供を産んだ女性が一番するべきことがこれだと書いていたライターさんがいた。米国の育児書からの引用であるらしいが、わたしにもこれが一番腑に落ちる言葉だった。母がくれた育児書にはまだ手をつけていない。世の中に出回っている多くの育児書を自ら買うこともおそらくないと思う。興味本位で開くことはあるかもしれないが流動的で多すぎる情報に振り回されたくない。
「明日、検診のあとこの子頼むね」
 正直、わたしは怒涛の流れに少し疲れていた。気儘な独り暮らしから同居生活に入り結婚、赤ん坊犬をひとまず成犬に育てながらの妊婦ライフのち、別居と育児の始まり、短期間とはいえ母と暮らすのも十数年ぶりである。
「あんまり遅くならないようにしなさいよ」
「わかってる」

 

 

つづく