オッパイ3

 次の日。産婦人科の待合室で育児の記録ノートと睨めっこしながら、婦長さんが連れていった我が子を待った。三時間おきに母乳にトライしているが、自信がないので母乳のあとミルクを追加する。飲む量は30ccから80ccと、そのときどきで違う。
「お子さんは順調ですよ、ママは元気ですか」
「ちょっとまだ傷が痛いくらいです、あと母乳が足りているのか気になります」
 婦長さんは赤ちゃんを夫に抱かせて、わたしを別室へ連れてゆき、乳房を出してと言った。
「いで、いだだ、痛いですけど」
「初めは痛いくらいマッサージするといいから」
 タオルを強く絞るがごとく婦長さんは乳房を絞る。すると乳頭から透きとおる白い液体がシャワーのように飛び出した。
「優秀なオッパイよ」
「はあ」
「オッパイは赤ちゃんとママの共同作業だから頑張ってね」
「はいお」
 婦長さんが足早に退室したあと着くずれを整えて部屋を出ると、夫がリンリンを抱いて待っていた。
「抱っこ代わろうか」
「代わりたいんでしょ」
「うん」
 不思議なことのひとつに、我が子を自分以外のひとに長時間抱いてもらうことに、初めはすごく抵抗があった。『血』であるのかなんなのか、義父に抱かれるのと自分の父親に抱かれるのとでは全く違う気持ちになっていたし、自分のなかに動物の本能を強く感じていた。
「どこへ行く?」
「歌でも歌おうか」
 母にリンリンをお願いして久し振りに夫とふたりで出掛けた。
「一緒に住む前にカラオケで語ったな」
「そうだそうだ」
 そうだった。夫はお酒を飲まないから、あのときはわたしだけがしこたま飲んだ。ハイボールを矢継ぎ早に飲んだ記憶がある。
「あのとき話をして、この娘にしようと思ったから」
「そうなの?」
 そうか。わたしはそのとき自分が彼になにを喋ったか皆目覚えていない。だけどその方がいいような気がしたので、ありがとう、とだけ言った。しばらく交互に歌っていたが、小一時間もするとマイクを持つ手が重たく感じたし、二時間経つ頃には乳房がつんと張り出した。
「帰ろうか」
 近所のケーキ屋さんで母の好きなバニラのアイスクリームを買って帰宅すると、我が子を抱いた母が玄関先で迎えてくれた。
「ほうらママ帰って来たよ」
 我が子を受け取ると乳房がじんと熱くなる。
「オッパイあげようね」
 にひゃあと笑う歯茎だけの笑顔がたまらなく愛らしい。
「今ねぇミルクあげてたんだけど愚図って20しか飲まないのよ」
 乳房を差し出すと彼女は目をつむりパクンと乳頭をくわえ、いつもより少しだけ強い力で吸啜し始めた。
「少しずつ吸う意志が出てきた気がする」
「オッパイだけで育つといいわね」
「え、わたしは混合がいいな」
「完母が最高よ」
「ねぇ、それより見て、目もとが笑ってる」
「ほんとう、目に表情が出てきたね。これからいっぱい話しかけてやんなさい」
「義母さんはそんなに話しかけたりしてなかったよ」
「お仕事で余裕がなかったんでしょ」
 母はちょっと怒っていた。この子が産まれて直ぐ手伝いに来るべきだったと言った。母が義母からもらったメールには産後ひと月は私に任せて下さいとあったらしいが、実際には毎晩遅く、母が思っていたように娘の産後のケアをしてもらえなかった点が不服であるそうだ。
 母は赤ちゃんの目を見て、「うおん、うおん」とか、「ああうう」とか言い出した。母の独り相撲のように見えたが、しばらくするとリンリンの方も「ああ、うー」と応え始めている。
「オムツもお風呂も、なにをするときも、話しかけてやんなさい」
「わかった」

* * *

 平日の昼間で、母を空港まで見送ることが出来なかった。赤ちゃんを抱いて玄関先で見送ったとき、母はやっぱりさみしいと泣いていた。
 ひと気のなくなったリビングの窓辺に寄って、
「改めましてどうぞよろしく貴方のママです」と、わたしは我が子の目を見て挨拶をした。すると、わたしの胸もとをさぐるように顔をこすりつけてくる。
「あらあら、お腹が空いたかな?オッパイあげようねー」
オッパイは基本3時間毎と決めて、欲しがる時にはなるべく銜えさせることにした。青魚が好きだが白身魚を摂り、豆腐の味噌汁か納豆、チーズに卵、緑黄色野菜、白米より麺が食べたいけれど白米を食べるようにした。口にするものを母乳の為に切り替え、体が疲れたら我が子に添って短くとも深い眠りにつけるよう努力した。頻回に沐浴やオムツを替えることでハンドクリームの消費量が倍になる。乳幼児のことを考えて、成分の強いものや香料のあるものは避け、ときどき夫が見てくれるあいだは好きなものを使ってリフレッシュするようにした。
「しばらく自分のことは後回しになるわよ」「いよいよ人生が変わるね」と、子育てをした色んなタイプの女性達から聞いていたが、百聞は一見にしかずであった。それでも、この子は宝物だと、心底思えることは今までに味わったことのない感情のひとつだった。
 オッパイをどれだけ飲んだか分からないが、赤ちゃんは耳のよこに拳をあてて眠ってしまった。リビングのソファーに置いたクーファンにそっと寝かしつけて、わたしは久しぶりにキッチンへ立つ。ひとまず家事は手抜きでいいから、赤ちゃんにくっついていなさいね、と誰もが言った。そうだからと言って夫の健康を疎かにすることもできないので、かなりつらいとき以外はなるたけ料理をしようと決めていた。
「鶏団子があったっけ」
 形成して冷凍していた鶏団子を取り出して、野菜庫から白菜を取ろうとして買い忘れているのに気づく。サッと我が子に視線が走る。ぐっすり寝ている、今のうちならダッシュで買い足しにいけるかもしれないと思った。
「でも・・・・・・」
 クーファンのそばへ行って我が子を覗きこんだ。すっすっ、と、小さな小さな寝息を立てている。
「とても置いては行けないわ」
 仕方なく、母が買い足してくれていたキャベツと、かろうじてひとかけ残っていた生姜を取り出した。
 出来上がったスープは何故か薬品のニオイがした。鶏肉の団子だけを取り出して噛むととても美味しいので、これはキャベツの仕業だなとキャベツを噛んでみたらひどくまずい。鶏ガラの出汁も生姜のうま味もキャベツが全てを台無しにした。
「ごめん、リベンジするし今日のは飲まなくていいよ」
 一応食卓に出してみたスープに箸の進まない夫が、
「食材、俺が仕事帰りに買って帰るよ」
「うん、重いものは頼もうかな」
 夫に生鮮食品を見つくろってきてもらうことは躊躇われた。自分で見たい。
「俺、しばらくジャンクなものでも構わないよ」
「あなたが構わなくても、オッパイに悪影響なんだってば」
 オッパイは白い血液。ママが口にしたもので組成は変化する。三時間毎が目安というのもいつも新鮮なオッパイを提供したいからで、吸わせない時間が長すぎるとママの脳がもうオッパイ作らなくていいよと解釈するので、出が悪くても頻回に吸わせた方が良いらしい。食事もさることながら、授乳のときにテレビや携帯画面を見ていては美味しいオッパイを提供出来ないという。ママの気持ちは赤ちゃんに伝わるようで、授乳のときこそ最大限のリラックスが必要だという。


 授乳のとき、わたしは先ず大きく深呼吸することにした。それから、どんなに眠くつらくとも、しんどいその瞬間だけは自分に嘘をついてでも「可愛い可愛いわたしの赤ちゃん」と声に出して言う。もちろん本音で話しかけることが常だが、真夜中と明け方の授乳はときにひどくつらいことがある。あらゆる努力をしても、一滴のオッパイも出ないことがあって情けなくて泣きたくなる。そんな或る夜、しょげていたわたしから赤ちゃんを取り上げて、夫は言った。
「少しぐっと眠りなさい」
 オッパイを銜えて乳頭をブンブンふりまわしながら、やんやんわめいていた我が子の姿をまぶたに閉じ込めてわたしは眠り落ちた。
 そうして約一時間後、階下で響くぎゃんという声で目が覚めた。
「どうしたの」
「駄目だ、ミルク全っ然飲まねえ」
 夫は哺乳瓶を片手に赤ちゃんをあやしながら参った目でわたしを見て、
「オッパイあげてくれ」と、彼女を手渡した。わたしはソファーに腰掛けて膝の上にクッションを置き、赤ちゃんを横にして乳房を差し出す。時刻は午前4時。
「ありがとうね、もう寝て」
 おやすみ、と、欠伸を噛み殺して夫は寝室へ上がった。


 土曜の午前中、ぱぱっと身支度をして、そっと家を出ようとした瞬間に赤ちゃんが泣いていた。いくら愛しい我が子とはいえ、平日は夫の帰宅までずっと彼女とひっついていることで、ときどき独りになりたくてたまらなくなる。
「そんなに愚図らないで、ママ帰らなかったらどうするの」
 疲れ過ぎていたから思わず出てしまった言葉を夫が聞いていた。夫は赤ちゃんを抱き上げて「ゆっくりしておいで」と言ってくれた。家を出たわたしは100メートルくらいダッシュした。頬を切る冷たい風が気持ち良かった。横切るバスを目で追いながら、このまま空港にでも行こうかなと思い出す。
 家からすこし離れたスーパーにたどり着いた。ただ買い物をするだけのことがちょっと楽しい。ぺたんこのお腹では、店員さんはもう以前のようにかごを運んでくれたりはしないけれど、この店で働く人達はとても感じが良くて癒される。一周してレジに持って行ったかごの中には夫の好きなものが沢山入っていた。
 家に帰ると玄関先に夫と赤ちゃんと愛犬がいて、愛犬は外に飛び出して来た。クウンとひとこえ鳴いて、何故か心配気な目でわたしを見上げた。
「おかえり」と、赤ちゃんを抱いた夫も愛犬と同じような目をしていた。
 浮いた浮いたで暮らしたや。わたしは本来そういうタイプの方だと思う。旅役者だった祖父の血か、根なし草のような生活を好んでいた。
「ただいま」
 夫から受け取って抱いた赤ちゃんのやわらかい頭髪を嗅ぐと、ミルクの腐りかけたようなニオイがする。それが何故か愛おしい。この小さな命を愛おしいと思えば思うほど乳房が張ってじんとする。
「そんなにお腹が空いているのに、ミルクじゃ駄目なの?」
 んくっ。こくっ。
「産まれたての時はママのオッパイ、見向きもしなかったでしょう」
 へよっ。へよん。
「美味しい?あなたはこれからどんな味を好きになるかな」
 握りしめた拳をあてている姿を見て、
「可愛いね、ほんとうに可愛い」
 そう口にすると空いている片方の乳頭から透きとおる白い液体がぽたぽた流れたので慌てて差し替える。
「ママのオッパイもだんだん出が良くなってきたねー、あなたが上手に飲めるようになったからだねー、ありがとう」
 んくっ。んんん。けほっ、けほけほっ。と、むせたので、首を支えて縦に抱いて背中をとんとんしながら、ごめん、ごめんと謝る。
 姑がキツくストレスで母乳が出なかったという義母と、難産で母乳が出なかったという実母。ふたりとも遠く離れてしまった。
「ママ、頑張ってオッパイで育てるから、はやくママといっぱいお喋りしようね」
 妊娠中、安定期の頃までは異性を育ててみたいと思っていたが、後期つわりからずっと女の子を育てたいと強く思い出した。わたしのこころにある母に対する愛情とトラウマという両極の感情にもう蓋をしようと思っていたのに。やっぱり女の子を育てたいと思ったのは、これまで知り合った色んな親子を見て、女親と娘という結びつきの強さを感じ続けたからなのかもしれない。我が子にはわたしにどんな愛情と反発を抱くのか楽しみだ。
 赤ちゃんは健やかに五カ月を迎えた。ときどきわたしが気分転換に出掛けるときだけ夫とのミルク戦争は続いているようで、わたしが帰宅すると「40cc飲んだ、今日も闘ったなぁ」とか言いながら出迎えてくれる。そんなとき、わたしを見てにひゃあと笑う彼女の視線の先はオッパイだ。
「おいで、オッパイしようか」