春よ来い ーつづきー

「飯食う?まだ眠る?」
 夫の声を聞いたときはもうすっかり陽が落ちていた。
「帰ってたんだ」
「うん今ね、おかんが茶碗蒸し作ったけど食う?」
 下へ降りると早速チビちゃんが片方の脚に抱きついてくる。
「マンマ食べたの?」
 抱きあげる。んふーっと笑う。
「ほうれん草としらすのおじやを食べさせたからね」
「お義母さんありがとう」
「ほら、あんた達も食べて」
 チビを膝にのせ、茶碗蒸しをひと掬い。わたしの動作を目で追いながら、チビは口をぱくぱく催促する。
「これは駄目よ、卵が入っているから」
「卵が駄目なの?」
「皮膚科の方では止められていて、だけどつい最近小児科では、いつから除去しているのか聞かれて」
 卵の部分をよけて、やわらかく煮えたかしわの身をチビの口へ運ぶ。
「母乳を飲んで急にアナフィラキシーになるようなことはないから、先ずはママから卵食べるようにしてねって言われて、わたしも4カ月くらいは卵は絶っていたんです」
 アレルギーの子は大変ね、と言ってお義母さんはテレビの方を向いた。バライティを見て、ケタケタ笑っている。変わらないな、と思いながらくずした茶碗蒸しから銀杏をつまんで噛んだ。このひとはじっくり話しをすることをあまり好まない。それから、衝突するくらいなら引く。というスタンスを貫いている。パーソナルスペースには個人差があるから構わないし、好きか嫌いかで言ったらわたしはお義母さんが好きだ。違う個性の他人と毎日暮らす結婚。主義主張の違う人間同士が寄せ鍋のようにうま味を出す、そんな家族になるにはどうしたらいいかな。とか、いろいろ思ってみることもある。ふと、自分の主義主張に相手を合わせようとするのは互いにナンセンスだと思い、それなら自然に寄りそいながら、自然に住み分けていればいいんじゃないかとも思った。それは家庭内別居とかそんな棘とげしい事態ではなく、もっとなんというか、おのおの呼吸のしやすいように暮らしましょう。そんな感じだ。
「わたしのなかではね」
「なに?」と、夫がリラックスした声で返す。彼の方ではどう思っているのか知らないが、プライベートの彼は、わたしほどあれこれ考えるタイプじゃないし、なにか一生懸命考えて話してみても「あっそう」くらいで、至極あっさりした反応なのだ。
 お義母さんもとてもあっさりした性質だから、互いの感情がしつこく絡み合うことはほぼない。それでも、そんなお義母さんにもお義父さんにだけは我々にみせるのとは違う顔をみせている。そんな姿を何度か見た。言葉を聞いた。その断片から、お義母さんがほとんどひとりで三人の育児をしていた間に、幾度となく自分が男にならねばという瞬間もあったであろうと察し、また、たった一年でも一緒に暮らした情のせいもあるのか、どうも今はまだお義母さんを味方する気持ちの方が湧きやすい。お義父さん、ごめん。
 二週間は瞬く間に過ぎた。その間わたしは眠れるだけ眠らせてもらい、ひと様の作った食事をありがたく頂いて、ちょっと抱いててください、と憧れの言葉を頻繁に使用した。
「ちょっと抱いててください」
「はいはい」
 もし娘が、いつの日か子を産み育てるならば、あんまり遠くなければいいと思う。それはわたしのエゴではない。彼女の縁がある相手が遠くであれば致し方ない。
「お母さん、ちょっと抱いててください」
「はいはい」
 中二階のリビングに隔離されたバッハの遊び相手をしにいく。ゲージから抱きあげて、抱きしめた彼の体は骨ばったく、我が子より軽い。よく食べる割に骨細の子で、聞き分けがよく、温厚だ。
 ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。わたしはバッハに何度も謝っていた。彼はフウ、と、一度だけ長めの息を吐いた。
 バッハの為に買ったレインコート、ツイードの服、ちゃんちゃんこ、ぬいぐるみ、ロープ、耳掃除の薬、爪切り・・・・・・、色々なものを義母に渡した。
「おかあさん嬉しい」
 事実、お義母さんは楽しそうだった。以前、おなじ犬種を保健所から引き取ったお義母さんはその子が長生きできなかったことをひどく悔やんでいた。
「あの子は虐待にあって、わたしに慣れるまでビクビクしてたからね」
 わたしがミルクを飲ませて風呂に入れ、散歩に行って、しつけをして。バッハは、愛情が詰まった子だ。
「おねがいします」
 赤いバンの後部座席にバッハを抱いたお義母さんが座った。浅く窓を開けて、
「任せて」と応え、彼らは夜のしじまに消えていった。

 そうしてしばらくは、階段を上り下りする際に中二階を振り返ることが出来なかったけれど、ある朝、ゲージもなにも跡形のなくなったフローリングの床を撫でることが出来た。おチビさんと一緒にリビングを歩き回っていたのも束の間のことだった。
「臨月の少し前くらいにさ、わたし坂道で転んだんだよね」
「そうなの?」
「バッハと散歩してる最中に」
 大きなお腹を抱え炎天下にさらされて。しばらくじっとしていたわたしのすりむけた膝に舌を這わせるバッハの目は思いやりに溢れてた。
「立ち上がるまでにそばに座って心配そうに何度も見るからさ、あのときすごく飼主冥利につきたな」
「あいつほんとに性格良いからな」と言って、夫がバッハの動画を手繰りだして見せようとしたが、それを遮った。
「ちょっとしばらくは見れない」
「生きてるんだからそんなに泣かなくていいだろう」
「いや、ちょっと無理」

***

 あの小さいのときたら、毎日毎日ぼくの大切な寝床に洗濯ばさみやらスプーンやら投げ込んでくるんだ、不愉快だったらありゃしない。
「そりゃキミが吠えたりして抵抗したらよかったんだ」
 もこもこの白い毛が生えた小柄なヤツが言った。週に一度は会っている。
「そんなことしないさ」
「なんで」
「大好きなパパとママから非難されるかもしれない、ボクがじっと耐えていさえすりゃパパとママはあの小さいのを注意するからな」
「キミって賢い犬なんだね」
「ボクは犬じゃないよ、家族だ」
 白いマルチーズはきゃんと笑って、そのうち分かるさと言った。
「捨てられて寂しくない?」
 黒いシュナウザーは白いマルチーズの前脚を噛んだ。捨てられたのじゃないさ、パパとママだってボクと暮らしたかった。
「ボクはいつかあの小さいのに言ってやる」
「なんて」
「ボクが兄貴だ」
「だから犬だってば」
 濡れた鼻を突き合わせて唸り合っているところへ、白い方の飼主が「帰るわよ」と席を立った。
 静かになったリビングの床を嗅ぎ、バッハは陽の当たる窓辺から新しくなった庭の景色を眺め、ウォーンと2、3度遠くへ吠えた。

 スマートフォンにおさめた動画を手繰りながら、夫はバッハに会いたいなとよく呟いている。
「あいつ、捨てられたと思ってないかなぁ」
「もう今頃は、ここじゃ俺の天下だと思って幸せに暮らしているよ、きっと」